忘れた、恋の処方箋

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 王立研究院は、しんと静まりかえっていた。  いまだに業務は再開されていないのでモニカは出勤していない。けれどピクスだけは毎日、朝いつもどおりに来て窓を開け掃除をし、夕方にはふたたび施錠して帰る。  マドロックはあれ以来ラボラトリーにこもりきりで、ピクスにあうのを避けている節がある。 (やはり……言うのではなかったな)  そのとき、 「あ、ピクスさん。いまキシャラから連絡があって!ラウラが帰ってきたみたい」 とモニカが研究室に駆け込んできた。   ついに旧ダウニール侯爵領から、ルドルフ王子とラウラが王都に戻ってきたのだ。 「それが見かけた人の話ではなんだかルドルフ王子とラウラがやけに親密そうに見えるって話で……どうなってるのかしら」  複雑な顔をしているモニカの話を聞いたピクスは、やはりそうなったかと思った。  ここを出たラウラの後をルドルフ王子が追ったと知ったときに、こうなるのではないかという予感はあった。  おそらくもうラウラは、結論を出しているのだろう。 (まあ、ラウラのことだから断り切れずにルドルフ王子に流されてしまった可能性もあるか。いざとなったら婚約解消を二回もするなんて前代未聞だとか、せめてもう少しここにいてくれとか泣き落としてでも引き留めよう)  そう思っていたピクスだったが、数時間後ラウラと対面を果たした彼は、もたらされた事実にそれどころではなくなったのである。  「だ、だいじょうぶですか……ピクスさん」  お人好しなラウラは、義兄を案じてあわてている。 「そんな……あれが《賢者の石》ではなかったなんて……」 「あ、あの!大丈夫です!エレノーラ様もおんなじ誤解をしていたみたいなので!つまり、マドロック様が寡黙すぎるのが悪いんです!」 「いいえ!けっしてマドロック様のせいでは……そうか、あれは《賢者の石》じゃなかったのか……あれ?じゃぁなんでマドロック様はラボラトリーから出てこないんだろうな」  ぶつぶつとラウラには意味のわからないことを言って、ピクスは理由に思い当たったように気持ちを立て直すと、  「行きなさい、ラウラ。あのひとがきみを待っているから」 と、告げた。    ☆ ☆ ☆  地下室の扉には鍵がかかっていなかった。  ピクスの言うとおり、マドロックはそこにラウラが来ることを知っていたから。  いつだってマドロックは自分から動こうとはしないし、自分の聖域からでようとはしないのだ。 「その様子だとルドルフ王子のもとに戻ることを決めたようだ。賭けはわたしの負けだな」 「賭け……?」 「きみがルドルフ以外を好きになれるはずがないと言ったから、わたしは暗示をかけるときに『きみがルドルフ以外の人間に恋をしたら恋情を取り戻す』という条件をつけた。もしきみがわたしを好きになったならそのときはわたしのものにするつもりで」  ラウラはなんだか悲しくなった。  マドロックは欲しいと思ったものを望むときにも、そうやって相手に選ばせようとするのだ。 「わたしこのままマドロック様と結婚はできません」  言うのには覚悟がいった。  けれど、彼を救いたいのなら、間違ったつなぎ方をしたこの手を一度放さなければならない。 「許さないと言ったらどうする。きみを閉じこめて囲って、羽を奪ってとべないようにするのは簡単だ。このままきみをここから帰さないようにすることもできる」  なんだかとっても怖いことを言われたのに、さみしいのはどうしてだろう。 「マドロック様にそれができるのなら少しは安心できるのですけど……」  はあ、とため息をついて言うと、マドロックは片方の眉をあげた。 「正気か?」 「あなたがパシウス様みたいに自分の欲望に忠実で他人を利用することをなんとも思ってなくて、結果幸せになれる人だったならこんなに心配しません」 「……心配?」 「そうです。わたしはあなたを愛してはいないけど、心配はしてるんです。そのために一生そばにいてもいいかな、と思ったくらいには好きですよ。だけどそれはわたしの願いであって、あなたの望んでいるものではないから……やっぱり結婚はしません」 「……意味がわからないのだが」 「ちょっとなに言ったらいいのかわたしにもわからなくて困ってます」  ラウラはとことことマドロックに近づくと、パーソナルスペースであろう距離に踏み込んで、下ろされていた彼の手を両手で包みこんだ。  マドロックはもたらされた体温に体を硬くした。ラウラは小さな手を重ね、這わせ、もみもみとこりをほぐすように動かす。  意図はしてないのだろうが、女にこんなことをされてなにも感じないわけがない。娼婦のように手練れてはいないにも関わらず、その行為はマドロックの中に熾火のようにくすぶる欲望をもたらした。  「きみがわたしを男だと思っていないのはわかっている。……思い知らせてやりたいと何度思ったか」  そう言いながらラウラの手をほどいたマドロックは、彼女の肩に手を置き身をかがめ顔を近づけた。避けようと思えば難しくないほど、緩慢な動作で。 「……っ」  おもわず顔を背けてしまったラウラは、はっとして視線を戻して、そこに苦笑いをしているマドロックの顔を見た。  そこには錬金術師ではない、ただの傷つきやすい青年がいた。  マドロックはラウラに背を向け、研究室の中へと入っていこうとする。  閉じこめるのは自分だ、と言わんばかりのマドロックの様子に、ラウラは後を追って閉まりかけた戸にすがりついた。 「ほらやっぱりできないじゃないですか!マドロック様のいくじなし!」 「……わたしにはさっきからきみの言動がさっぱり理解できない」  ため息をついて、マドロックがラウラに向き直る。 「きみには被虐思考があるのか」 「勝手に人の性癖を決めつけないでください!ありませんから!」 「いや、どうもきみにはその傾向がある。どうせルドルフ王子にも強引にせまられて落ちたのであろう」 「いえ、どちらかというとわたしが抱きついて!ってそういうことじゃないし!」  自爆して慌てているラウラを、マドロックはじっと見下ろした。  表情にこそでていないが、次の一言は彼が途方にくれていることを教えた。 「きみの望みはなんだ?わたしにどうしてほしいんだ……」   無理矢理にでも奪って欲しいとラウラがいうのなら喜んでそうする。でも彼女が言うとおり自分からそうすることは、きっとしない。 「マドロック様が必要なんです。わたしは、あなたをこのラボラトリーからひっぱりだしてお天道様にあてて存分にひなたぼっこさせてやろうとたくらんでます」 「通常たくらみというのは成就するまで明言しない方がいいぞ。それにきみはわたしを年寄り扱いする気か?断る」  この娘はいったいなにを言い出しているのか。  マドロックが自分の父親になにをしたか、もう知っているに違いないのに。 「あなたが三年前に完成させた薬をわたしに預けてください」  それがわたしの望みです、とラウラは言った。
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