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時は流れ。マリオンは十六の年を迎えていた。
夕暮れの中、馬車に揺られながら、エリオットはいつになく着飾った主をちらりと見やる。マリオンは屋敷を出発したときと変わらず、浮かない顔で俯いていた。
「初めての夜会ですね」
「そうだね……」
エリオットの声に反応して、マリオンの瞳がエリオットを見た。
もうほとんど夜になりかけている黄昏時の色だ。光を失いかけているその瞳は、愁いを帯びていても美しく澄んでいた。
マリオンはとうとう、この日まで社交の場にほとんど出ずに過ごした。
病の進行を遅くするには、目に刺激を与えずに安静にしているのが一番だからだ。
無論、マリオンにしてみれば、それは催しを欠席するための建前であったわけだが、その建前もじきに使えなくなるだろう。
マリオンの瞳は、日に日に、光による刺激とは関係のない、闇の世界へと向かっていた。
「ご安心ください。先方も目のことはご存知です」
今宵の夜会の主催者はマリオンの病にも理解のある人で、何かあれば気兼ねなく言うようにと気遣ってくれていた。マリオンを社交界に慣らすにはもってこいの場だ。
それに、マリオン自身が夜会に出ると言ったのだ。
あの酷い人見知りのマリオンが。エリオットは主の成長に、不躾にならない程度に微笑むと、その主の様子をそっと窺った。
マリオンは両手をきつく組んで、可哀想なほどに震えていた。
まだ会場に着いてもいないのにこの有り様では先が思いやられる。馬車から降りた瞬間に、ふっと気を失ってしまうのではないだろうか。
心配が膨らんだエリオットは、マリオンの膝にそっと触れる。
「引き返しましょう。欠席の連絡を――」
「良い! 大丈夫だから」
いつになく気負った様子で声を張り上げるマリオンを、エリオットは注意深く見る。
「何故、それほど今日の夜会にこだわるのです?」
「……踊ってみたい人がいるんだ。多分、今日しか許されない」
あっさりと口を割ったマリオンの言葉に、エリオットの胸が不快にざわめいた。
「……マリオン様。ダンスはお控えになった方が懸命です。先生との練習ではお上手でしたが、慣れぬ相手では勝手が違いましょう」
――醜い。
エリオットは自らの選択をそう断ずる。
主の身を案じるふりをしながら、その実、自らのためにマリオンの小さな望みを訳知り顔で潰そうとしている。身の程を知らぬ愚かな行為は、なんと冷たく醜いことか。
マリオンは諦めきれないような表情で、唇を噛み、虚空を見つめていた。こちらを見ているわけではないとわかっているはずなのに、エリオットはその視線から逃げるように顔をそむけた。
「ねえ、エリィ。夜会の間も側にいてくれる?」
「はい。あなた様に危険が及ばぬよう、お側に」
――けれど、知らない人間と踊るあなたを見ているのは嫌です。
エリオットは口をついて出そうになった本音を危うく飲み込んだ。
「……きっと、みんなに注目されるね。エリィはとても綺麗だから」
わざと話題を逸らしたマリオンは、緊張を滲ませながらも、気丈に微笑んだ。幼い頃から変わらない笑みに、エリオットの胸がチクリと痛んだ。
「……あなた様の美しさには、及びません」
口に出してから、従者として行き過ぎた発言だったと気がついた――否、口に出す前からエリオットにはわかっていた。それでも言わねば気が済まなかった。
マリオンは美しい。
きらめく白銀の髪。絹のように白く艶やかな肌。病に侵されていく瞳すら、その美しさを引き立たせる飾りでしかない。
容姿もさることながら、その心根の純粋さはまるで聖なる人のようで。
マリオンと交流を持った数少ない人間は皆、マリオン自身に惹かれていたのは明らかだった。それでも「盲目でさえなければ」と口惜しそうに揶揄する者たちに、エリオットは何度拳を握ったか知れない。
マリオンの美しさの前では、病のことなど些事である。何故わからないのか。いや、わからなくていい。誰にも知られず、このまま、自分だけが。
「ねえ、エリィ」
「はい、何でしょう、マリオン様」
主の呼びかけに、エリオットは弾かれるように顔を上げた。
――自分は今、何を考えようとしたのか。
名を知らぬ感情の気配に怖気づく心を叱咤して、エリオットは何事もなかったかのように背筋を伸ばす。
懐中時計の蓋の細工を指先でなぞっていたマリオンが、小さな声で呟いた。
「ダンスの、ことなんだけど」
またしてもエリオットの胸の内が不愉快に捩れる。膝の上の手が無意識に拳を形作った。気が付いているのかいないのか、マリオンは話し続ける。
「目の見えない私を導いて踊れる程、上手な人はいないだろうね」
聞き分けの良いマリオンの言葉に、嵐だったエリオットの心が凪いでゆく。
「けど……エリィなら、できるでしょう?」
躊躇って、絞り出すような声で呟かれたそれが、凪いで行く途中にあったエリオットの胸を再び騒がせた。
「エリィ、お願い。私は君と踊りたい」
マリオンの華奢な手が、エリオットの手に伸びてくる。手探るように触れるその手は、緊張のせいか哀れな程に冷たく震えていた。
エリオットは迷わず握り返す。黄昏の瞳が歓喜に揺れ、白い花が綻んだ。
それを目の当たりにした瞬間、エリオットは胸の内で蠢いていたその感情の名前を知った。
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