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静かな春の昼下がり。エリオットはベッドに横たわる主を見つめていた。
その身に年相応の皺を刻んでも、マリオンの美しさが損われることはなかった。刻まれた皺も、エリオットにとっては二人が共にあった時間の証明であり、愛おしいものでしかない。
マリオンの唇がかすかに動き、呟くような声がエリオットの耳朶を揺らす。
「エリィ」
「はい」
エリオットはそっとマリオンの手を握る。元から華奢だったが、さらに細くなっていた。今にも折れてしまいそうで、エリオットは胸が締め付けられる思いがした。
「……エリィ、私は世界を知らない」
マリオンはそこで言葉を切って目を閉じた。眠りについたかのように見えて、エリオットは主の名前を小さく呼ぶ。
「私の側にいてくれたエリィも知らない。この、美しい世界を」
美しい。愛する人がそう呼ぶ世界を、エリオットはそうとは思えなかった。彼にとって、世界などもうじき何の意味もなさなくなるものだった。
マリオンは冷たい手を、存外強い力で自らの枕元へと導く。そこには懐中時計が収まっていた。
「これは、私の魂。私の目」
拒むように強張る手に懐中時計を握らせると、マリオンの手はベッドに落ちた。エリオットがすかさずその手を握り直す。
「私は、エリィと一緒に、世界を見に行きたい」
マリオンは震える声でそう言うと、唇を閉じた。その唇が声を発することはもう二度とないとエリオットは直感していた。
「承知しました」
違うと言いたげな、切ない微笑みがエリオットを見る。
「……わかったよ、マリオン」
エリオットはマリオンの額に口づけを贈る。マリオンはくすぐったそうに、子供の頃と変わらぬ笑みを浮かべると、安堵したようにゆっくりと目を閉じた。
まるで、白い花が散りゆくような、美しい微笑みだった。
握りあった手。二つが同じ温度になるのに、そう時間はかからなかった。
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