遠くへ行きたい

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遠くへ行きたい

父親は世界的にも名の知れた指揮者。母親は元オペラ歌手。 音楽一家に生まれ、当然のように自身もピアノにのめり込んで。縁あって、作った曲を世間に聴いてもらえるようにもなった。 生まれた時からそこに音楽という世界があって、その狭い世界の中でずっと生きてきた。 それが当たり前で、それが好きで、それ以上に望むものなんてない。 ……そう、思っていたんだ。あの日までは。 『……私ね、結婚するの。』 家が隣同士の幼なじみ。俺の狭い世界の中に初めから居た彼女は、これからも当たり前のように隣にいると思っていた。 距離を置きたいと言われても、互いにもっと広い世界を知るべきだと言われても、それでもそれは揺るがないと思っていたんだ。 広い世界に目を向ける。 どこに? どうやって? とりあえず……どこか遠くにでも行くかな。 俺、櫻井色(さくらいしき)が転校を決めた理由は、そんな自暴自棄で適当なものだった。 どこか遠くに……とは言ったものの、これはさすがにやりすぎたか? 駅からバスに乗ること僅か数分にして、立ち並んでいたデパートやマンション、民家すらも姿を消し、脳内には後悔の二文字がチラつき始めた。 見渡す限りの田園風景。どこを見ても田んぼ。どれだけ走っても同じ景色。そもそも走ってるのが道なのかすら怪しくなってきた。今の時期、きっと夜中はカエルの大合唱だな。 まさか日本に未だこんな場所が残っているとは。 都心に住んでいた俺には信じられないくらい、この畔倉町(あぜくらちょう)という所は田舎だった。それでも、駅からこうして高校までのバスが出ているだけまだマシなのかもしれないが。 田園風景を眺める事数十分。ほぼ貸切だったバスを降りて、ようやく俺は目的地である彩華(さいか)高校の前にいた。 二時間一本などという恐ろしいバスの本数のせいで始業よりかなり早い時間に着いてしまった。遠くから部活動の朝練に勤しんでいる生徒の声は聞こえるが、周りには人の気配はない。 それにしても、 「……周りの景色に全く溶け込んでないな。」 これから二年間世話になるであろう校舎を目の前にした第一声は、呆れの言葉とため息だった。 全寮制の彩華(さいか)高校は五年前に出来たばかりであることは聞かされていたが、白を基調としたその校舎は、校舎というよりホテルのような豪華さで、なおかつ無駄に敷地が広い。周りを緑に囲まれている田舎の風景の中に、いきなりどんと白い校舎が構えているのだ。それはもうあきらかに浮いていた。 それもこれから先、見慣れてくるのだろうか。 「とりあえず、まずは職員室だよな。」 ポケットにねじ込んでいたスマホを取り出し、メッセージアプリを開く。 ――当日までこっちに来れない事は説明してるからさ、まずは職員室で制服と教科書もらっといでー。 うん、なんの手がかりもない。 転入に関するやり取りを幼なじみが仲介してくれていたのだが、あいつはいつもとにかく言葉が足りない。 校内の見取り図とかないのか。このだだっ広い敷地の中から職員室を探せって、どんだけ難易度高いんだ。 目の前にそびえる建築物を見上げ、本日何度目かのため息をついた。 このまま時間を潰して登校時間になるのを待つのも手なのかもしれないが、如何せん今日は以前の学校の制服で来てしまった。彩華の茶色のブレザーの中に白の学ランなんて悪目立ちすること間違いなし。前の学校では父親の事が知られて、いらぬ注目を浴びてしまっていたのだ。この学校ではなるだけ目立たず穏便に過ごしたい。 とにかく闇雲に探すよりは確実に人がいそうなグラウンドの方に行くかと足を踏み出したのだが、校門をくぐり花の散ってしまった桜並木を抜けて開けた場所に出た瞬間に、いきなり人を発見した。 朝練中だろうか、彩華高校のものと思われるジャージと体操服に身を包んだ一人の生徒の姿。運動部、にしては線の細い中性的な男だ。 声をかけようとしたのだけれど、目の前の男が突然す、と空を見上げて右手を伸ばした事で、タイミングを完全に見失った。 空に向かって真っ直ぐに伸ばした手を己の胸に当て、ぎゅっと抱きしめるようにしてから、男はその場で左足を軸にくるりと回った。肩まで伸びた亜麻色の髪がふわりとゆれる。 バレエ、だろうか。くるくると回るその身体には全くブレがなく、その手はまるで風になびいているかのように緩やかに、なめらかに宙を泳ぐように舞う。 思わず息を飲んだ。 なんだ、これ。 胸の奥に風が吹き抜けるような感覚。 まばたきすら忘れて目の前の光景に魅入った。 男は背後にチラリと視線を移してから身体をひねり、 ふわりと飛んだ。 時間にすれば一瞬の事だったはず。 けれどそれはスローモーションのように見えた。 重力を忘れたようにその軌跡は綺麗な弧を描き、ストンと軽やかに着地した……ところで男と目が合った。 しっかりバッチリ目が合った。 「あ、」 そこで初めて人がいた事に気づいたのだろう。驚きで言葉を失って、次の瞬間その顔が真っ赤に染った。 まさかこんな時間に誰か来るなんて思いもしなかったんだろう。両手で己の顔を抑え、男は地面にしゃがみこむ。 「お、はようございます……」 行動とあまり噛み合ってない言葉が、塞がれた両手の奥から聞こえてきた。
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