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「すみません、ちょっと、その、考え事をしていて…」
蚊の鳴くような声でそう言って、男は両手の隙間から顔を覗かせた。
髪も瞳も色素が薄い。挙句透けるように白い肌。もしかすると純血の日本人じゃないのかもしれない。
男はゆっくりその場に立ち上がると、改めてぺこりとこちらに頭を下げる。
「おはようございます。」
恥ずかしいのか視線を泳がせてから気まずそうにはにかむ。
亜麻色の髪がさらりと揺れた。
「えっと、……おはようございます。」
いや、なんでこの流れでご丁寧に朝の挨拶なんかしてるんだ?
っていうか、考え事してたら踊るのか?そもそも、こんな時間にこんな場所で?
ツッコミどころは山ほどあるが、そこはぐっと口を噤んだ。
そうだ。一瞬頭から飛んでいたが、目の前に人がいるんだ。この際そいつがどんなやつだろうとどうでもいいじゃないか。
「えっと、職員室の場所を知りたいんですけど。」
「あ、ちょうど僕も行くところなのでご案内しますね。」
ようやく当初の目的を思い出し尋ねてみれば、間髪入れずに御丁寧な返答がきた。
いや、そこまでしなくても。といいかけた口は噤む。馬鹿みたいに広い校内で適当に動いて無駄に体力を消耗するよりずっといい。
「えっと。じゃあお願いします。」
何となくこちらもつられて敬語で答えれば、男は背後の花壇脇に置いていたスポーツバッグを肩にかけ、こちらですと歩き始めたので、俺は黙って後ろからついて行くことにした。
「この学校広いですもんね。僕も最近転校してきたんですが、最初はよく迷子になってました。」
どうやらこの男、人見知りというものをしない性格のようだ。道すがら御丁寧に施設の案内をしてくれる。
今見えてるのが体育館で、その奥に食堂があって、さらにその隣が学習棟でその隣が……この辺りで覚えることを放棄して男の言葉を右から左へ聞き流し、案内に適当に相槌をうちながらついて行く。
隣に立って思ったが、この男えらく姿勢が綺麗だ。背筋がしゃんと伸びていて、歩くその動作すら絵になる。
運動部のようなのに線は細いし、髪は長いし、おまけにどうにもおっとりしてるし、なんとも不思議な人間だ。
まぁ、向こうにしてみても他校の制服着た人間が早朝から校内でウロウロしていたんだから怪しいことこの上ないのだろうが。
色々と謎はあるものの、互いの事を話す前に会話は終了した。
校内の最奥に位置する場所にでん、と聳えるやっぱり白い建物。
ご丁寧に来客用のスリッパまで用意してもらって、二階の職員室まで案内してもらった。
「失礼します。」
ようやく辿り着いたドアを開けると、数人の教師達の姿はあったものの、なんとも入りづらい雰囲気が漂っている。
さてと、これからどうするべきか。考える前に、ここまで案内をしてくれていた男が一つの机に向かって歩き出した。こちらはどうしていいのかわからず、とりあえず入口で様子を見る。
「木崎先生、おはようございます。」
「おー、おはよう。」
木崎と呼ばれた教師は男の挨拶に対して、広げていた新聞紙の向こうから面倒くさそうに片手を上げることで答えた。
「どうした?」
「今日は日直なので、日誌をいただきに。」
そう言うと、男は木崎の机に無造作に積まれている本や書類の束から勝手に日誌を探して抜き取った。木崎はそれを咎めることめせずに新聞を広げたままだ。どうやら、この光景はいつもの事なんだろう。
しかし、今日は勝手が違う。
「それから、えっと、お客様をお連れしたんですけど。」
「客ぅ?」
ここで初めて新聞から視線を上げた男と目が合った。
歳は二十代後半といったところだろうか。シャツのボタンをふたつも開けて、一応ネクタイをしているものの、締めているというより首からぶら下がっているようなだらしない状態だ。挙句無精髭まで生やしているなんとも教師らしからぬ男だった。
木崎は入口に立ち尽くしていた俺を一瞥すると、瞬きをひとつ。
そうして、乱雑にものが積まれたデスクの上から、卓上カレンダーを手にして日付を確認した。
「……げっ、今日だったか!?」
どうやら着ていた制服で俺の正体を察したらしい。
いや、それよりも今げ、って言いやがったか?
木崎は勢いよく椅子から立ち上がると、ゴソゴソとデスクの上の書類の束を漁り始める。
「あー、櫻井だったな。ちょ、ちょっと待ってろ。」
あ、うん。こいつはダメだな。
俺は瞬時にそう判断して失礼しますと一応一声かけてから木崎の元に歩み寄る。
「転入に関する書類は速達で送ったはずですけど。」
「あー、もらった。その辺は大丈夫だ。手続きはお前の幼なじみ様にやってもらってるはず…」
頭痛がしてきた。こいつ本当に教員なのか?
「おー、あったあった。」
不安にこめかみを抑える俺をよそに、木崎は山積みにされた本や書類のタワーから俺の教科書らしきものを発掘し、手渡してきた。
なんでちょっとドヤ顔なんだよ。
「とりあえずそれがあれば何とかなるだろ。」
「ならねぇよ!制服!つーか、俺のクラスやら担任やら細かい話…」
「あー、俺が担任。ちなみに数学担当な。」
「…………マジなのか。」
「マジに決まってんだろ。」
「あ、あの、」
一発ぐらい殴っていいんじゃないかと拳を握りしめたタイミングで、俺の隣から静止の声がとんだ。
日誌を取ったものの、退室するタイミングを完全に見失っていた男は一連のやり取りをオロオロしながら眺めていたのだが、さすがに看過できなかったらしい。
「あの、えっと、その、」
「あー、心配しなくていいぞ。仲良しだから。」
「うわっ、」
いきなり肩を組まれて体勢を崩した俺の耳元に木崎が顔を寄せる。
「場所変えるぞ。……ここだと色々まずいだろ。」
ぽそりと囁かれたその言葉だけで十分だった。
どうやら木崎は俺に関する事情を完全に把握しているらしい。
「俺はこれからこの櫻井様と大事な話があるからな。気にせず教室行け。な?」
木崎がチラリと視線をよこしてきたので、俺は頷いた。
たしかに、木崎とは色々と話しておくことがありそうだ。とりあえず、ぶん殴ろうと握りしめていた拳は引っ込めてやる。
「えっと、じゃあ僕はこれで失礼します。」
「あの、ここまでありがとう。助かった。」
男は返事の代わりに俺へと視線を向け、ニコリと微笑んでから俺達に一礼する。
そういえば、名前も聞いてなかったな。
踵を返した後ろ姿を見ながらぼんやりとそう思ったのだが、
「あ、おい、みどり!」
ギクリ、とした。
俺のすぐ隣から聞こえたその名前に、情けないことに体が硬直する。
平静を装う為に、誰にも気づかれないよう小さく息を吐いた。
いまだにこの名に反応するとは我ながら情けなさすぎる。
「はい?」
当然返事をしたのは俺の脳裏に浮かんだ存在ではなく、目の前の男。
「ホームルーム適当にやっとけ。多分一限目も少し遅れるからそれまで自習な。」
「わかりました。」
みどりと呼ばれた男は再度こちらにぺこりと頭を下げると日誌を抱えて今度こそ職員室を後にした。
木崎の所に日誌を取りにきて、木崎から指示をもらったってことは……そういう事だよな。どうやら、俺はつくづくこの名前に縁があるらしい。
なんか、今朝から今までの時間で不安しか感じないわけだが……
「さて、と。」
周囲に視線を巡らせてから、木崎は声をひそめた。
「……場所変えるぞ。」
とりあえず、今は目の前の事を片付けていこう。
俺は木崎の言葉に無言で頷いた。
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