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水色の空に薄い上弦の月がかかっている。川の向こう岸には桜の淡いピンク色が帯を作って、足元は一面の菜の花。
向こう岸から裕一が雪乃に手を振っていた。
「雪乃」
「裕一さん!」
雪乃はいつの間にか十五の少女に戻っていた。橋を渡って駆け寄ると、裕一が雪乃を抱きしめた。
「会いたかった」
裕一は二十歳。
裕一の生家は小さな呉服屋を営んでいた。家を継ぐため、街の大店に修行に出ていた裕一は、年に四回、この橋を渡って帰ってきた。
盆と正月、秋の彼岸と春彼岸。
「雪乃は綺麗だから、僕がいない間に誰かに取られないか心配だ」
いつもそんなことを言っていた。
「私、誰のものにもならないわ。会えなくても、ずっと裕一さんだけ……」
「かみつゆみはり。やめるはひるのつき」
菜の花の向こう、水色の空にかかる半月を見て、裕一は言った。
「姿は見えなくても、僕はずっと雪乃のそばにいる」
どんなに離れていても、いつも雪乃を思っている。
明日は戦地に旅立つという日、裕一は雪乃をきつく抱きしめて言った。
「我儘だとわかっている。だけど、君を誰にも渡したくない……」
「私、誰のものにもならないわ」
ずっと裕一だけ。
背中を抱き返して言った雪乃に、裕一はちぐはぐなことを言った。
「だめだ。もしもの時は、僕を忘れて幸せになって」
雪乃は首を振った。待っていると。
ずっと待っているから、必ず迎えに来てと。
「雪乃は生きて、幸せになるんだ。いいね、雪乃……」
「どんなことがあっても、生きて、幸せになるわ」
雪乃は約束した。
寂しくて、会いたくて、何度も泣きたくなったけれど、死んでしまおうとは思わなかった。
裕一と、約束したから。
振り返ると、橋の向こう側で菜乃花と三人の孫が手を振っていた。五人の曾孫がそこに加わる。
「私たちの子どもよ」
裕一が眩しそうに対岸を見やる。
「祐介は、あなたに似てるの。一番、男前」
「よく頑張ったね。たくさん生きて、偉かったね」
裕一の手が雪乃の頭に置かれた。
涙が零れた。嬉し涙だ。
「行こうか」
花嫁行列が土手を歩いている。白い着物を着た十九の娘になって、雪乃は列に加わった。
裕一が小さく口ずさむ。
いちめんのなのはな
「今、何回言ったっけ」
雪乃は微笑んだ。
ああ、私はこの人と生きてゆくんだわ……。
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。
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