やめるはひるのつき

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 個室から、雪乃の明るい声が聞こえてきた。 「看護婦さん、今日はあの人が来る日?」  看護師の中田が聞き返している。 「弘美さん? もうじき来ると思いますよ」 「パソコン、持ってきてくれるかしら」  弘美は思わず、隣を歩く母と目を合わせて微笑んだ。スライド式のドアを開けると、雪乃が顔を上げた。 「お待たせ。今日は菜っちゃんも一緒よ」 「お母さん……」  菜乃花(なのか)が雪乃の手を握る。雪乃は曖昧に笑っただけだった。 「パソコンは?」 「ちょっと待ってね」   中田に支えられて体を起こした雪乃の前に、弘美がパソコンをセットする。  時刻は十二時半。面会時間は一時からだが、病院の許可をもらって少し早めに入れてもらった。  画面の中に青年の姿が映し出されると、雪乃は顔を輝かせた。 「裕一さん!」  しばらく他愛のない話をして笑っていた雪乃が、かすかに顔を曇らせた。 「裕一さん、どうかしたの?」 『どうかって?』  元気がないと、心配そうに画面をのぞき込む。青年はぽつりと答えた。 『僕がそばにいない間に、ほかの誰かに君を取られないか、心配で……』  その言葉を聞くや、雪乃の頬がポッとバラ色に染まった。ベッドのそばで見守っていた三人の女たちは、顔を見合わせて口元を緩めた。 「会えなくても、ずっと裕一さんだけ……」  雪乃が目を(しばた)いて、青年を見つめる。目元を拭ってから、にこりと笑った。 「裕一さん、あの日のこと、覚えてる?」 『あの日……?』  結婚式を挙げた日のこと。雪乃ははにかんで続ける。 「花嫁衣装の私を、裕一さんが迎えに来てくれて、裕一さんの家まで歩いたのよね。土手の上を、みんなで……。川の向こう岸には桜が咲いていて、土手の斜面には菜の花が一面に咲いてて……」  淡い色の空に上弦の月が薄くかかっていた。大正四年の山村暮鳥(やまむらぼちょう)の詩を小さく口ずさんで、今、何回言ったっけ、と裕一は照れくさそうに笑ったのだ。  その横顔を見上げた時、自分はこの人と生きてゆくのだと思って嬉しくなったと雪乃は懐かしそうに話す。 「やめるはひるのつき」  いちめんのなのはな。画面の向こうの青年が返す。 「どんな時代でも、桜の花も菜の花も、変わらずに咲くのよね……」 『どんな時代でも……』 「裕一さんが、言ったのよ」  雪乃は笑い、青年も小さく笑った。 「会いたい。裕一さんに……」  雪乃の目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。両手で顔を覆って泣き始めた雪乃を見て、中田が静かに「今日は、このくらいにしましょうか」と声をかけた。  パソコンの中の青年に頷き、弘美が電源を落とした。横になった雪乃は、すぐに目を閉じて眠ってしまった。
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