やめるはひるのつき

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 母との通話を切った祐介は、窓の外の雪景色を眺め、冷めてしまった缶コーヒーを飲んだ。ダッシュボードの時計を見ると十六時を過ぎたところだった。  まともに昼休みを取れない日もあれば、順調に取引先を回り切り、定時前に仕事が終わる日もある。今日は後者だった。  三十分ほど運転してホテルに戻り、日報を入力して時計を見る。  十七時を過ぎていた。  恋人の佳織(かおり)にズームの招待をリンクしたラインを投げ、しばらく待つと、佳織が入室してきた。  ずっと見たかった顔がパソコンの画面に現れる。背景を見て「まだ学校?」と聞いた。 『うん。でも、準備室だから、平気』  佳織は埼玉の私立高校で音楽を教えている。  厳しい就職活動の末、ようやく祐介が勝ち取ったのは大手食品メーカーの営業職だった。就職を決めて三年。佳織との遠距離恋愛も三年になる。  そろそろ異動がある頃だが、関東圏に配属になる可能性は低いと聞いている。九州や近畿、北海道が次の勤務地になれば、また三年の遠距離。  この先どうすればいいのか、祐介には正しい答えがわからなくなっていた。 『で、どうだった?』  佳織の声にはっとした。 「うん。ちょっと緊張した」 『でも、うまくいったんでしょ?』 「どうだろう。あんまり自信ないや……」  できる範囲でやればいいよと佳織は言った。  学校、楽しい? と聞くと、楽しいよ、と笑顔で答える。  可愛いなと思う。  ミスコンなんかに出るようなタイプではないけれど、ふつうに可愛くて優しい佳織は、きっと生徒たちにも好かれているのだろう。 (男子も、いるよな……)  高校時代、若くて綺麗な女性教師にひそかに憧れる男子生徒はいた。何を隠そう、祐介自身がその一人だった。  独り暮らしの部屋の隙間だらけの食器棚。その隙間に置いた小さな箱に目が行く。表面に毛足の短いビロードを貼った紺色の四角い箱だ。中には祐介の給料三か月分が入っている。  透明な石のある銀色の指輪。  ほかの誰かのために買ったのではないことを、祐介自身が一番よく知っていた。 「今の仕事が、一段落したらさ……」 『一段落したら?』  続く言葉がうまく見つからなかった。ただ「一度、そっちに行こうかなと思って……」と言う。 『うん。おいでよ。待ってるよ』  自分のために教師を辞めてくれとは言えない。  自分が今の仕事を辞める勇気もなかった。
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