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「千翔ちゃんは許可を出したよ。でも⋯⋯」
光を映さない瞳が、私をとらえる。一瞬の真剣な表情にどきりとする。千翔くんに見られたときの感じとは違う。もっと、冷や汗をかくような⋯⋯。
「アリスはダメだろう。不思議の国に迷い込んだらロクなことにならないって、絵本で読まなかった?」
千翔くんがつけたと思われているあだ名。
「アリスを不思議の国に連れてきちゃった白ウサギくんは⋯⋯君かなと思うんだけど、違う?」
彼は音もなく一歩踏み出して、千翔くんの心臓のあたりをトンと軽く叩いた。
「え⋯⋯」
「ちょっと⋯⋯」
咄嗟に千翔くんを庇おうとして、2人の近くに寄る。自分でもよく分からなかった。彼の言葉に怖さを覚えて、勝手に体が動いていた。
千翔くんは分かりづらいが、驚いたように会長を見つめている。身体が緊張で強ばっているのを、そばで感じた。彼が何を言っているのかも分からなかったが、千翔くんも私も、彼がつくりだす空気に囚われて、動けなかった。
「へぇ」
私たちを交互に見る彼の目が、ますます据わる。綺麗な瞳にこんな視線を向けられたら、誰だって動けなくなる。
だが、千翔くんに向けた手を下ろすと共に、不機嫌そうな表情はすぐに消えた。代わりに笑みを浮かべる。 その笑みは、なんだか悲しそうだった。澄んだ瞳の中には、憂いを帯びた浅葱色が見えた。
「別に、怒ってないよ」
私と千翔くんにだけ聞こえるくらいの小さな優しい声で呟いて、くるりと背を向ける。
その背中がとても悲しそうに見えるから。私はその細い腕を掴んで、引き留めたくなる。
彼が怒る理由も私が不機嫌になる理由も、一緒なのだ。それを私たちは知っている。
「朔」
小さな声でその名を呼ぶ。
千翔くんが横目でこちらを見るのが分かる。もしかしたら聞こえてしまったのかもしれない。けれども、そんなことはどうでもいいのだ。
私はもう一度呼ぶ。
朔。
泣かないで。私の大切な大切な⋯⋯。
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