10月15日

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10月15日

そして信吾は、一年前の思い出を未練がましく今もこうして抱えている。 廊下から美術室のガラス越しに見える不機嫌な、『太田信吾』を映した『荒木 京子』はもう何処にも居ない。 誰がこうした? 言ノ葉か? クラスの知らない誰かか? それとも、アレだけ嫌っていた美術部でなにかあったのだろうか? 信吾は、一つの可能性だけを避けて通りたいと願い、結局その人物に行き着いて澄んで居た筈の信吾の感情が濁りを帯びていく。 「あんなに、手負いの獣みたいだった荒木にも、絵を見せたいと思う相手が出来たんだな……」 「手負いの獣かい、当時の私はそうだったかもしれないねえ、でも手負いの獣にも当時は太田くんが来てくれたから私はあの絵を完成させる事が出来たさね」 「じゃあ、今回もさ、俺が居るからさ!二人で絵完成させようぜ!そうすれば……」 「いいや、今回は駄目さね。これは私が一人で考えて答えを出すべきことさ。それに、毎度毎度アンタに頼っていたんじゃあ、私は一人で何も出来ない女になってしまうからねえ」 言葉を繋げば無様になる事は信吾が誰よりも分かっていたが、それでも言葉は止まってくれはしなかった。 「別にいいんじゃねえの?前回も今回もその次もさ!ずっと俺が居るから!別に一人で全部を荒木が出来る様にする必要なんてねえよ!出来ない事は俺が手伝うしさ!何でも頼ってくれよ!」 手伝う事だけが繋がりではない。 だとしても、信吾はその繋がりを何より大切に温めてきたのだ。 だが、京子は今何か別の目的の為にそこから離れようとしていた。 「それは違うさね。私は一人で出来る様にしなきゃいけないんじゃないだよ、私は一人で出来る様になりたいのさね」 京子の決意の瞳の奥には確かに一人の存在が刻み込まれていて、信吾はその存在が自分でない事に、深い焦燥を募らせる。 「なぁ、俺ってお前のなんなんだろうな……」 意を決して聞いた言葉は…… 「友人さね、それも一等大切な友人さ」 想像通りの言葉で…… 期待はずれの答えだった。 だから、熱に浮かされた信吾の理性は、望む本能を望まぬ言葉で体現する。 「八重……なんだろ?荒木が一番に完成した絵を見せる相手ってさ……」 感情が理性の箍を外し、決壊していく。 「ズリいじゃん……なんだよそれ。急に現れてさぁ!未来で死んで此処に来て、人一人簡単に救っちまって、本当何だよそれって感じじゃんかよ……あぁ、そういえば、お前八重の事は下の名前で呼ぶもんな……」 赤みがかった京子の顔が何よりも答えだった。 「ちっちがっ……」 言い淀んでも、分かりきっている事実に、堪えようとして喉の声が掠れ、みっともない状態なのだと信吾は自覚した。 京子から見れば何故か急に苦しみ出した信吾に掛ける言葉が見つからないとアタフタするばかりだ。 「わりい!オレ今日は帰るわ、本当ごめんな困らせちまって!でもアレだからな!俺も絵はめっちゃ楽しみにしてるから!」 そう言って信吾は床に置いていた鞄を引ったくり早足で階段を駆け下りていく。 途中階段を上がって来る二人に勢いのまま『じゃあな!』とだけ挨拶とも言えない言葉を交わし信吾は学校を後にした。 言ノ葉と八重は、不審に思ったが、何か用事があったのかもしれないと高を括り四階の美術部ヘと行くと、立ち上がったままの京子と目が合った。 「どうした?凄まじい勢いで信吾が階段を駆け下りて行ったが、何かあったのか?」 尋ねる八重に、京子は苦々しく瞳を伏せる。 「……分からないさね、急に行ってしまって私も何がなんだか……」 「……じゃあ、今日はもう解散でいいかしら?暑くて話が出来る気温じゃないわよ、もし続けるなら場所を移動しましょう?」 「いや、今日はもう終わりさね。二人は帰ってくれて構わないよ」 二人は、それは逆に言えば京子は此処に残るという事だろう。 そして此処に残って、出来る事など限られている。 「あんたこの暑さで絵描くつもりじゃないでしょうね?夏もそれで倒れたの忘れた訳?」 「覚えているさね、でも描かないと終わらない、仕方ないじゃないかい」 尻窄みになっていく京子の言葉で、今ここで何か在ったのは明白だった。 「京子が倒れるぐらいなら絵なんて完成しなくていいわよ、それに死んだらどうにもならないわ」 それは言ノ葉だから、言える事で言ノ葉だから絶対に止めたい事だ。 「死んだ二人が此処に居ると、その言葉もあんまり説得力がないねえ」 「好い加減にしなさいよ!あんた、描くときは窓も開けないじゃない!密閉されたクソ暑いこんな場所で集中出来る訳がないわよ!良いから今日は諦めて帰るわよ!」 「グチグチとうるさいねえ、帰りたいなら言ノ葉ちゃんは帰れば良いさね」 熱し易く冷め易い言ノ葉が肩に力込め、一歩前に出ようとした所で、八重は言ノ葉の肩を引いた。 「二人とも落ち着け、それから言ノ葉、乱暴をしようとするな。それは意味が無い」 「別に……してないし」 言ノ葉はあからさまに握っていた拳を解き、プイッと八重から顔を逸らす。 「そうか、それは疑って悪かった。だが言い争っても意味が無い。京子には京子の、言ノ葉には言ノ葉の言い分がある。お互いに譲れないのなら折衷案をとるしかないだろう。それで京子。お前のそれは今日、やらなければならない事なのか?」 真夏日の太陽から燻される様な熱の籠る踊り場に、不気味な静寂が舞い降りる。 「……そうさね」 「ふむ、なら話は簡単だ、俺がここに残ろう。言ノ葉は家に帰って頭を冷やせ」 納得がいっていないと言いたげに言ノ葉は京子を睨みつけたが、その視線を八重が遮ると、諦めた様に寄せた眉根を元に戻し「そうする」と言い残し、言ノ葉は床に置いていた鞄を持って、京子の為に買って来ていたレモンティを八重に押し付けた。 「この距離だ、自分で渡したらどうだ?」 八重を挟んでいるとは言え、数メートルと離れていないが、どちらも意識的に視界に入れようしなかった。 「喧嘩してるから無理」 それだけ言い残し、言ノ葉は踊り場から背を向けて階段を降りて行く。 残されたのは八重と京子の二人だけ、途端に集中力を掻き立てる静寂が辺りを包むが、京子が持った筆は全くと言っていい程進んでいなかった。 一〇分程だっただろうか、無言の時間は京子が筆を置いた音によって破られた。 「八重くんも帰っていいだけれどねえ……」 「俺はお前を見張る義務がある、お前が帰ると言うまで帰る事は出来ない」 「アンタが居ると集中出来ないんだよ。帰っておくれ」 「集中出来ていないのは一人でも同じだ。人のせいにする方が間違っている」 「違うさね!八重くんが居るから!」 その言葉に八重は言葉を被せた。 「同じだ。今のお前では何処にようと、誰が居ようと集中出来る筈がない。それだけは俺が保証しよう」 中には苛立ちを製作意欲に変える人間も居るが、京子は明らかにそのタイプの人間ではないだろう。 「アンタに何が分かるんだい!ろくに絵も描いた事が無い人間が!」 「そうだな、俺には京子の描いている絵の事はさっぱり分からない。だが、今お前が苦悩しているのは本当に絵のことなのか?」 「あっ、アンタに何が分かるんだい……」 「俺は何も知らない。信吾と京子で何を話したのか興味はあるが、二人の話を知ろうとする事は野暮というものだろう?だから俺からは何も聞く事はしない。当然お前も話したくないのであれば話さなくてもいい。今は絵に集中したいというのなら、絵を描いてみせろ。だが向こうのお前は、誰がいようと、どんな雑音の中でも集中していた。もしまだ、向こうの……俺の知る『荒木 京子』に今でも勝ちたいと思っているのなら、今は考を正すべき時だ。今のお前ではあの『荒木 京子』に勝つ道血筋は万に一つもないだろうからな」 八重は敢えて強い言葉を選び、京子へと投げかけるが、その言葉は、今の京子にとって感情の導火線を擦り上げただけだった。 「アンタに……死んでる八重くんなんかに!今生きてる私の何が!何が分かるって言うんだい!」 当然勢いよく打つけたボールが、勢い良く帰って来るのは道理で、彼女も強い言葉を八重に打つけて来る。 だが、感情のまま吐き出した言葉の意味を理解して、京子は、八重に対して最も言ってはいけない言葉だと喋り終えてから気付いた。 ただ、予想外なのはその言葉を受けてもなお八重が眉一つ動かすことはない。 「知らないな。京子、お前はお前自身を誰にも知らせようとしない。だから俺はお前を理解できない。それは死んでいようと生きていようと変わらない。仮に京子の事を分かって欲しいのであるなら、その努力をすべきだ。何もせず安穏と生活をして、自分を理解してもらおうなどと考えているのなら、それは精々親にしかしてもらえない。もし赤の他人に理解を求めるのなら、自分をさらけ出し相手にその許諾を受け、始めて自分の一端を理解してもらう事が出来る。ただ、それでも一端しか理解し合う事はできないがな」 絶対に勢いでも言ってはいけない言葉だった。 謝りたいという気持ちが先走り、でも何かを言い返したいという感情が、それを塞き止める。 グルグルと周り加速して行く思考に、京子の理性は悲鳴を上げ始めていた。
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