10月1日戦場にて

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10月1日戦場にて

 中東の最前線。 明滅する光に今の時間が朝とも夜とも分からないのは、彼の思考力が低下していたからに他ならない。 覚えているのは爆裂音と、土煙。 そして身体が宙を浮いた感覚だった。 隣にいた部隊長がバラバラになるのを数メートル先に見つけて、自分に意識があるのが幸運だと思った。 だがその反面、視界の半分が黒一色で潰れている事が奇妙に映っていた。 部隊自体が文字通りバラバラになり、尚かつ右も左も分からない最前線で、逃げるために立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。 両足は付いている。 だが力が入らない。 ただ、一つ分かる事があるとするなら今この場所で動けなくなっている事が不味いということだけだ。 なんとか、這って……這って……這って…… 異常な喉の乾きを、泥水を啜って耐えて、また這って 小さな窪みに身を預ければ、思い出した様に痛みが身体を襲うが、抗う事も癒す事も出来ず声を抑えて受け入れる。 そんな痛みに耐えて数分…… いや、数時間だったのか…… 時間の感覚が朧げになるにつれて、死の実感が自分を取り囲んでいる事に気が付いた。 三百六十度から聞こえる怒号と叫び声から、死神が大忙しで自分に気を配る暇がないのだろう。 だが、あの音が止めば、そう遠くない内に迎えが来る。 何処からか聞こえた足音に、小銃を構える気力すら湧かなかったのは、そんな存在が居たなら自分が持つ素末な兵器など、何の意味も為さない事を知っていたからだ。 眠りと言うにはあまりにも不快な微睡の間で瞳を閉じれば、何処か遠くから声が聞こえてきた。 「おい!しっかりしろ!おい!」 最初、声を掛けられているのが自分だと気付かなかった。 だが肩を揺らされ、狭い視界に自軍の徽章を見つけ、その声が自分を呼んでいるのだと理解出来た。 「お前の名前と部隊……クソッ!」 駆けつけた男は、倒れている彼の細部を見て即座に言葉を失っていた。 「しっかりしろ!今運んでやる!」 誰とも分からないその人物が顔を顰めたのは、自分の今の有様が酷すぎるということだけは察しがついた。 「大見……八重……部隊は……じゅう……に……」 乾涸びた喉から、掠れた声を目一杯に振り絞る。 「そうか!大見上等兵!十二部隊は全員2番高地に撤退して全員無事だ!お前の顔を見たがってる仲間が待ってるんだ!だから……」 悲壮な声音が自身の現状を何よりも知らしめた。 「俺は……助からない……です……か?」 「ふざけるな!これ以上死なせてたまるか!もうすぐそこだ!お前も生きて帰るんだよ!」 揺れる背中に背負われて、一五分程だろう。いつの間に意識を失っていたが、気付けば簡素なテントの中に居た。 此処がどういう場所か知っている。 外で治療を受ける人間と テントの内で治療を受ける人間の丁度境目 いわゆるdead SPOTと呼ばれている場所だ。 『寒い』……と、感じた事をそのまま口に出すが、野戦病院の看護は此方を一瞥するだけで無感情な瞳は小揺るぎもしない。 朧な意識を繋ぎ止めるのは意思ではなく背負ってくれた男性の応急処置の為せる技だった。 助けてくれた彼のおかげで、少しの間だけ長生きする事ができたのかもしれない。 そう思った矢先、とうとう黒い何が枕元に立った。 瞼が重い…… 指先が冷たい…… 空気を吸う事すら億劫だ…… 周りの声は聞こえないのに、弱まっていく自分の心臓の鼓動だけがうるさいぐらいに耳朶を打つ。 ああ、騒がしい…… 誰か、早くこの五月蝿い音を止めてくれ。 そう願った時に、傍らに黒い何かが立ちすくむ。 此方を見下ろしている顔は真っ黒で、テント内で慌ただしく動く人間は、誰もその存在に気付いて居ない。 テントの隙間に入り込んだ影は、dead spotにいる彼にしか姿を表していないのだろう。 見つめ合うこと数秒、瞬きの刹那にその存在は掻き消え、代わりに白衣を纏った一人が、慌てた様子で此方を見下ろした。 繋ぎ止めていた糸が解れ、張っていた糸がされ下がる。 自分を見下ろして来る人数が増えるに連れて、視界が狭まっていく。 寒さが和らぎ、身体の重さが抜けていく。 あぁ……最後だ。 これが最後。 人生の最後に彩る迷彩色は、些か寂しい物があるが仕方がない。 選んだ道は、気付けば道が無くなっていたのだから選ばずとも、こんな最後も当たり前だ。 この道を選んだのは何のためだったのか? 死の間際の数瞬には、僅かながら考える時間があるらしい。 この道を選んだ理由…… それは、もし次があるのなら必ずその時は一歩を踏み出す為に…… 高校生の頃、通学路で同級生の少女が見も知らぬ男に刺殺された。 それは少年の目の前で起こった出来事だ。 親も先生も、仕方が無いと言ってくれたが、それは違う。 あの当時、高校生だった彼に出来る事は無かったなんて言えなかった。 凶器を取り出す瞬間を見た。 その男が少女を狙いすました瞬間も見た。 ギラついた視線と、剥き出しの感情を見た。 それらを見ている間に少女が刺され、その身体から温度が失われていく一部始終を何もせず黙って見つめていた。 見ても、何も出来なかった。 見ているだけで、踏み出せない人間には何も出来ない。 あの行為を見せ付けられているのだと感じるには十分過ぎた。 お前は無力だと嘲る様に、刺した男は笑っていた。 助けられなかった。 助けるための一歩も踏み出せなかった。 ……どれも言い訳じみているかもしれないが、結論は一つだ。 出来なかったと悔恨を並べて見せても、結局彼は何もできていない。 何かが出来る様になる為に自衛隊に入って、何も出来ずに死の間際に余白を埋めている。 さぁ、もうすぐに時間がやって来る。 考えを纏めようとして、今まで散らかったままにしていた自分自身に気が付いた。 最後の瞬間。 考える時間はあっても、散らかった物を片づける時間は無いらしい。 後悔が無い様に諦めが悪かった筈なのに、諦めが悪かった事に後悔している。 だからせめて、誰にでも否応無しに来るこの最後の時間…… 彼女が何年か前に通り過ぎたこの刹那を共有出来る事だけは、密かな楽しみだったのだが…… どうも心の底からは、楽しめそうにない。 視界の中央で暗闇が明滅する。 聞こえず、見えず、何かを感じる事も出来ない。 そう、この時初めて『大見 八重』は実感した。 「ああ、俺は死んだんだな」
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