10月6日

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10月6日

昼休みとは言わずもがな、個々人の与えられた自由な時間である。 何をしようとも自由とまで言わずとも、各々の裁量によって全体が暮らし易い空間を作り上げる努力をすべきだと八重は密かに思う訳だ。 一人でご飯を食べる事は、特段苦痛でもなく、むしろ食事時間が確約されている此処は居心地が良いとさえ八重は思える。 非常呼集は掛からず、当たり前の様にきちんと時間があり、飯も戦地における食事は喉を通す事すら苦痛だった。 だからクラス内で時折聞こえて来る、八重がどうのとか、大見が気になるだとかは八重にとっては瑣末な事でしかない。 「おう、八重、今日も前良いか?」 話しかけて来た男子生徒。 彼の名前は確か『太田信吾』だった筈だ。 信吾とは八重が高校二年の時に知り合い最も仲のいい友人として昼食を共にしていた記憶がある。 「好きにしてくれて構わない信吾。そこは俺の席じゃないが、皆自由に他の座席に座っている。ならどこに座っても問題はない」 「おっ……おう、そうだな……というか、八重、その左目どうしたんだよ?」 「左目は、少し事情があって今は見えないんだ。だが痛みはないし然したる問題はない。信吾の方こそ最近はどうなんだ?確かバスケ部だったろ?順調なのか?」 「……おっおう、順調だよ……いきなりどうした?」 この会話の間に生まれた奇妙な隙間に八重は此処で前々から感じていた違和感に確信を持った。 それは、此処数日ずっと感じていた違和感だ。 というのも、八重が話す会話は相手が一呼吸後に不信感を露わにするという事だ。 八重の両親。 担任教諭と友人とクラスメイト。 これだけの年代別ポピュラーオピニオンを集めれば八重の方がおかしいのだと気付くのに充分である。 「すまない、話は変わるんだが……信吾笑わないで聞いて欲しい。俺はおかしいか?今も信吾は俺の言葉に対しての反応は芳しくなかった。つまり信吾は俺の言葉の何処かに違和感を感じているという事だろう?」 「……違うと言えば、違うな。正直今の八重は何か……大人になったというか、う〜ん何だろうな。自信に溢れてるって言うのか?話し方も全然違うし……頭でも打ったか?」 全員が全員頭の心配をしてくる辺り、やはりおかしのは八重の方なのだろう。 「繰り返しになるが、頭部に損傷はない。病院でも検査をして異常は見られなかった。俺には何も問題は……どうした?」 八重はまだ話をしている最中だと言うのに、信吾は席を立ち、此方を見下ろしている。 「どうした?って!それはこっちの台詞だって!そういうのがおかしいって言ってんの!なぁ!こいつおかしいよな!八重マジでどうしたんだよ!」 信吾は隣に座っている女子に話を振ったがビクっとされるだけで、具体的な言葉は貰えなかった。 「……何の話だ?具体的に言ってくれないか?済まないが俺はそういう事に気付くのに疎いんだ。もし分かるならきちんと言葉にして教えて欲しい」 「そういうのがっ!ああぁぁぁあ!もう!分からん!上手く説明できないけど!今のお前はおかしい!変!絶対に変!」 信吾はリアクションが大きい方で声のボリュームもデカい。 彼の声はクラス中の注目を集めるには充分過ぎると言える。 それに留まらず、廊下を歩く生徒の視線まで集めてしまう彼の声なら、戦場でもよく通るだろう。 「分かった、俺がおかしいのは理解した。だから、一旦落ち着いて席に座ってくれ」 「そういう所もだよ!何でだ八重!どうしてこの違和感が伝わらない!つい一週間前まではあの万年ネクラの八重だったろ!」 「分かった。俺に伝わらなくとも、お前の声の大きさでクラス全体に伝わったから、一旦落ち着いて席に座ろうじゃないか」 これ以上喋らせたとしても、今の状況は八重にとって有益であるとは言えない。 信吾を椅子へ押し込み、黙って食事を再開する。 「あ〜食った食った、じゃあ八重。次の授業の準備してくるわ」 信吾の良い所はその切り替えの早さもあるのだろう。 誰にでも好かれ、誰にでもあの笑顔を振り撒くのなら、嫌われる原因を作る方が難しいかもしれない。 八重は底に残っていたお茶の残りを無理矢理に喉へ流し込み、一階にある自販機へ行く為に教室を出る。 窓から差し込む昼の日差しは、校舎全体を照らし、時折吹き付ける秋特有の北風が校庭に生えている紅葉を始めたイチョウの葉を緩やかに揺らしている。 人と人が入り乱れ、学校という場所の時間が過ぎていく。 いや、人が時間を早めているとも取れるかもしれない。 人と人とが時間を作り、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。 だから『一度目』の八重が体感した高校二年の、特に十月一日から先の時間は長かった。 あの時に見た景色はこんなにも心引かれる景色だっただろうか? 間延びした景色の白黒は何時も不気味で、隣で喋る彼ら彼女らの話し声は、不快な騒ぎ声だったと思っていた。 追いやられる程景色は歪み、正しく認識する事も難しくなっていた。 八重にとって左目の見えない今の方が正しく物事が見えている気がするのはきっと気のせいじゃないのだろう。 階段を降り、自販機で8年後ではいつも通りのお茶を買う。 高校時代は炭酸飲料ばかりを飲んでいたが、ぬるくなると飲めた物じゃないので、大人になってからは何時もお茶を買うようにしている。 「へ〜八重くん炭酸じゃなくていいんだ?」 横合いから掛けられた言葉に、視線を移せばそこには例の少女が立っていた。 いや、彼女が八重の後ろを付けて来ている事は分かっていた。 八重がわざわざクラスから一番遠い自販機に来たのは、彼女の真意を確認する為だ。 「俺が炭酸を買っていると、よく知ってたな」 「言ったでしょう?私は全部知ってたって。八重くんが炭酸を買ってる所なんて何百回と見たわよ」 「?……そうか?最近はお茶ばかりだったんだが、キミは何か飲むか?」 「そのさぁ!キミって言うの何なの?クラスメイトでしょ?正直腹立つんだけど」 「……怒らせてしまったならすまない。俺はキミの名前を忘れてしまった。だからキミの事はキミとしか言えないんだ」 「はぁ?え?なにそれ?クラスメイトの名前も覚えてないって事?喧嘩売ってるわけ?」 怒気を孕んだ少女の瞳は、今にも飛びかかって来そうな程の熱量を感じさせている。 「違う、覚えてなかった訳じゃないんだ。ただ忘れてしまった。キミの事は知ってる。知ってたから助ける事が出来た。ただそれだけだ」 下手に回った八重の態度に肩すかしを食らったのか、少女の怒りは少しずつ秋の風に解けて行く。 「何それ……意味分かんない。……でも、まぁいいわ。忘れたなら今度は忘れないで、私の名前は『硯 言ノ葉』よ、ちゃんと覚えて」 「……そうか。分かった。言ノ葉。俺の名前は大見八重だ」 「そんなの知ってるわよ!って!だから!そうじゃなくて……」 何かを言おうとして、言ノ葉は言葉を言い淀む。 言葉が纏まっていないなら、今は話すタイミングではないのだろう。 「そうか、光栄だな。じゃあな言ノ葉。そろそろ授業が始まる。俺は教室に戻らせてもらう」 正直なところ、八重には言ノ葉に対する関心が全くと言っていいほど無かった。 助かったなら良かったが、それ以上に付き合う気はない。 「ちょっ!ちょっと待って!まだ話は終わってない!って、ねぇ!答えて!八重くんは何で私を助けられたの!」 もどかしい問答だと言ノ葉は思う。 だが言ノ葉はその内容を聞きたいが、聞けないのだ。 硯 言ノ葉は巻き戻りを体験した。 何度も、何度も、同じ一年を繰り返した。 始まりは何だったかと聞かれれば、通学路で刺され死んでしまった事に原因がある。 だから、この数日間頭を総動員して考えた。 変わっていない行動の中で何故『大見八重』だけは違う行動がとれたのか? そして、一つの結論に辿り着いた。 彼は私と同じなのではないか? 仮に、『大見 八重』という人物が繰り返しをしていたとしたら、助けられる可能性はある。 ただ、言ノ葉はその事に関して深く追及することが出来ない。 硯言ノ葉を取り巻いた、繰り返しの最初の原因は何だったのか? 彼女はその理由を口が裂けても八重に聞けなかった。 だから硯 言ノ葉はこう聞くしかない 『何故私を助けてくれた』ではなく 『何故私を助けられたのか』と だが、恩知らずと罵られようと、言ノ葉は聞かずにはいられない。 たとえそれが不躾な質問だったとしても、聞かない訳にはいかないのだ。 唯一だった。 『大見八重』は何故、『一度目』と同じ行動を取っていた『硯 言ノ葉』を助けられた? 彼の存在が一体何者なのかどうしても知りたいのだ。 だからもう一度…… 言ノ葉はその言葉を問いかける。 「何でよ!何であの時に八重くんは私を助けられたの!」 「……言ノ葉は助けて欲しくなかったのか?」 「違う!そうじゃなくて!八重くんが助けてくれた事は感謝してる!それは本当に感謝してるの!それは嘘じゃない!でもそれはありえないのよ!」 『一度目』と全く同じとは言わないが、瓜二つと言える程に言ノ葉は一年間をやり直した。 繰り返しの一年間は同じ言葉と行動を繰り返すしか出来なかったのだ。 それで変わる未来がある筈がない。 あってはならないのだ。 どれだけの時間と精神をすり減らして来たか、その記憶の時間と行動の数が言ノ葉の中で塞き止めていた感情を溢れさせる。 「八重くん教えて!何で八重くんは私を助けられたの!何で……何で、私はあの場所で……殺されなくちゃいけなかったの……」 言ノ葉が肺腑の奥底から絞り出した、一言を聞いた瞬間、十月一日から殆ど表情を見せなかった八重の顔は、初めてみる驚愕を浮べていた。 「お前今……なんて……いや、それよりお前……今の言葉、どういう……」 「だから私っ」 「あ〜居た、居た。言ノ葉ちゃん、ジュース買いに行くって、普通一番遠い所自販に行くかい!って!八重くんかい?ってなんで二人一緒なんだい??あれ?もしかして私今空気読めてなかったかねぇ?」 京子はただならぬ雰囲気の二人を見て、ソッと身を引こうとするが、言ノ葉は迷子の子供の様に京子の裾を掴んだ。 「あっれまぁ?どうしたんだい?……あれま?言ノ葉ちゃん泣いてるのかい!?八重くん、これはどういうことかねえ?」 即座に言ノ葉の前に回り込む京子は明らかな敵意を孕んで八重を見つめていた。 「あ〜……すまない、俺にも詳しい事は分からないんだ。多分だが、俺を見て犯人の顔でも思い出したのかもしれないな……」 八重は適当に思い付いた言い訳を京子へ言うと、納得したと柏手を打ち、警戒心を解く。 「ああ、そういうことかい……お〜よしよし、大丈夫さね〜言ノ葉ちゃん。此処にはキミを傷つける人は居ないからねえ〜さあ面を上げて涙を拭いて前を見るさね」 「うっさい!京子嫌い!黙ってて!」 「なんですとぉ!人がせっかく慰めてやっているのに!その言い草はなんなんだい!罰があたるよ!」 「ああもう!分かってるけど……わかってるけど!でも駄目なんだよ……こんなの、私最低だよ……」 もう一度泣き出した言ノ葉に二人はどうしたものかと、この状況に目を合せるが、肝心の言ノ葉は京子の背中に顔を埋め、呼び止めた八重を見ようとしなかった。 「あれまぁ、困ったねえ。言ノ葉ちゃんとは長い付き合いだけれども、今まで見た、どの言ノ葉ちゃんよりも、なんだか参っているねえ」 「うっさい……京子お願いだから、何も喋らないで……」 八重は何度かこのような光景を見た事がある。 一度目は被災地救援の際。 二度目は中東前線で目の前で親を吹き飛ばされた子供を保護した時。 どの場合も経路は違うが、彼ら彼女らが抱えた思いは単純だった。 目の前で起こった理不尽を許容できない。というただ一点である。 言ノ葉がどんな理由から理不尽を感じ、何故許容出来ないのか八重は分からないが、その一端が八重自身にあるという事だけは理解出来た。 そして、彼女が言った『何故死ななければならなかったのか?』という疑問に対して八重は答えを持っていたが、八重からしても自身の置かれている状況は荒唐無稽なものだった。 「言ノ葉、よく聞いてくれ。お前が何を思って、何故俺に対して怒っているのか、俺には分からない。言ノ葉の中で折り合いの付かない気持ちがあるのかもしれないし、もし辛いなら別に喋る必要もない。だが、お前はまだ生きてる。あの場所では誰も死んでいない。お前の過去にした後悔は、どうにも出来ないが、これから先の事に関してはお前が自身が選択が選択をする権利がある。だから大丈夫だ。俺もお前も生きている。生きているなら俺もお前も次は後悔のないように生きるだけじゃないのか?」 八重は何処か泣きじゃくる彼女の姿が、dead spotで倒れていた八重自身と重なって見えた。 こんなにも気持ちよく泣けるなら彼女に言葉は要らないのかもしれない。 隣に立ってくれる友人が居るなら、他には何も要らないのかもしれない。 「ほへ〜そんな台詞、高校の単元で習ったかい?やっぱり、八重くんは大人っぽいねえ」 馬鹿にしているのかとも思うが、これが『荒木 京子』の本来の姿なのだろう。 しかし、大人っぽいとはよく言ったものだが、現在の大見八重に対してその言葉は当てはまらないだろう。 「俺は大人っぽくなんていない。ただ子供っぽくないだけだ。京子」 八重は、言ノ葉が先ほどの呼んでいた彼女の名前を呼ぶ。 「……びっくりしたねえ、急に下の名前だもの、それはびっくりするねえ」 「すまない、京子の上の名前を知らないんだ。もし別の呼び方がいいなら、教えてくれ」 「いやいや良いんだよ、私は別に下の名前で構わないさね」 言葉の端々に柔らかな人間性を垣間見せる彼女だが、ある種で隙がない人間性を秘めている様にも感じるのだから不思議である。 「そうか、じゃあ改めて京子。すまないが言ノ葉の事を頼む。俺が居ると言ノ葉は余計に荒れるかもしれない」 「了解したよ、後はこの大きな胸にドンと任せると良いねえ」 八重は小さく黙礼をして、その場を後にしようとした所で、言ノ葉にキュッとブレザーの裾を掴まれた。 か弱い指先の何処にそんな力があるのか分からないが、八重を繋ぎ止めるには充分過ぎる原理だ。 指の主の求めに応じて振り返れば、京子と寄り添う言ノ葉が八重を見つめていた。 秋の雲間の隙間からの漏れる光が言ノ葉の表情を照らし、曇り、また照らし、期待と不安に揺れる視線を浮かび上がらせる。 「……ねぇ、八重くん。また話してもいいかな?」 ブレザーを掴む指先が微かに震えている。 疲れ果てた彼女に残る僅かな勇気を振り絞った行動だと、一目で分かる。 「お前はクラスメイトに話しかけるのに一々理由が必要なのか?」 「だって……私さ、八重くんに……」 八重は彼女の言葉を最後まで待たなかった。待つ必要もないだろう。 ただ思った事を伝えれば良いのだから。 「俺は要らないと思うけどな」 二人の会話の空白を埋める様に休み時間の終了を知らせる学校の予鈴が鳴り響いた。
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