第三話 冷たい人。

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ひどい雨の日だった。 会社の資金を使い込んだことがばれ、その日限りで解雇された。月70万近くもらっていた。 その日も母は無口だった。扉を叩いても、話しかけても返答はない。ただ、足で扉を叩くような、 ドン という音を出した。まあ、いつものことだから仕方ない。 クビになった会社を出て、家に帰るわけにもいかず、都心のコーヒーショップに入った。席はほぼいっぱいで、私のような年配者はいない。 人になんといえばよいか、わからない。母に電話しようと何度も携帯の画面を見るが、勇気が出ない。 とりあえず、先のことを考えよう、と自分を落ち着かせようとしたが、他のことが頭に浮かんできた。 「アンタ、もういいって。わかったよね」 私は祖母の前掛けを掴んで、泣いていた。 「お母さんはいいから」 母の声はかすれるほどに強くなっていた。いつもそうだった。部屋の中を弟と走り回り、障子にぶつかって穴を開けた時は、ホウキの柄で腿の裏側にアザができるほど叩かれた。 そんな夜は和室二間の祖母の家に泊まることが多かった。夜中に目が覚め、少し周りを見渡すと背中を向けて祖母が居る。反対を向くと母が居るはずなのに、居ない。 きっと父と自宅にいるのだろうと思っていた。 確かに朝起きると、母は居た。ただパジャマを着たままでいつもぼっーとしていた。それは普通ではないことが子供の私にも理解できた。 「お母さんは疲れてるからね」 母に優しい記憶は無い。いつもイライラして悩んでいた。父の悪口ばかりを言っている、そんな印象しかない。 幼稚園の卒園式も祖母が来たらしい。 「洋ちゃんの母さん見たことない」 友達にそう言われたことがショックだった。その友達の家は文房具店で何かを買いに行くとお母さんはいつも居た。 その日も祖母の家に泊まり、また夜中に目が覚めた。いつもように祖母は背中を向けていた。左側を見ると、母がいない。 でも今日は違う。母はその部屋の隅の高い所にある、小窓から外を見ている。街灯に照らされて母の顔が白く浮かんでいる。その母は外を興味深く眺めている。生き生きした顔だ。 時計を見ようと目を柱に向けたが暗くて良く見えない。母は両手で小窓を上に持ち上げて、まだ外を見ている。 しばらくすると猫がぎゃーと声を上げた。私はびっくりして祖母を見た。しかし起きる様子はない。 ギーっという音がなり、母は小窓を閉めて布団に入った。ふーっという深いため息が聞こえた。 私は何かが終わったかのように安心したのを覚えている。 翌朝、ざわざわと話す近所の人たちの声で目が覚めた。 「どうしてこんなことするんだろうね。早く片付けようね」 数人の中年女性の声だ。その声を聞いた祖母が小窓から外を覗く。 「どうしたの」 その声を待っていたかのように中年女性たちはまくし立てるように話し出す。その後、祖母は慌てて外に出て行った。 「おばあちゃん、菓子パン買い行っていい」 「今日はダメだよ。お家にある物食べて。かりんとうもあるから」 祖母の家の正面は駄菓子屋だった。玉子サンドや揚げパンなんかも売っていた。祖母の家に行くとそこのパンを食べるのが楽しみだった。 しかしその朝はなんだか重い空気があった。祖母は言葉が少なかった。 「しょうがないね」 洗面所で顔を洗う母にそう言っていた。 隣のガタッと椅子を引く音で周りに気がついた。そのコーヒー店は人の出入りが多い。隣の席には雨で濡れた傘がかけてあり、ピタピタと水滴が床に落ちていた。 自分の傘を手に取るとゆっくりと立ち上がった。どこに行くあてもないがじっとしていられない。 駅の階段を登りながら、なんとなく自分の今までのことを思い返していた。 あんなことをしたのはいつからか。子供の頃、同じクラスの裕福な家の子の机の中から、参考書を盗んだことがあった。 特に勉強熱心だったというわけではないが、綺麗に揃われていたそれを欲しいと思い、手を付けたのが最初だった。 20歳になる頃にはエスレートしていた。近所の古い家の玄関先に新聞紙を丸めて、食用油を染み込ませ、火を付け、置いた。 朝になるとその細い路地は人でいっぱいになり、辺りは大騒ぎになっていた。それが楽しかった。 嘘はいっぱいついてきた。
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