第三話 冷たい人。

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ただ嘘で失敗はしていない。しかしこの歳で見栄で会社の資金を横領しては先は無い。 どこへ行くあてもなく、緑の電車に乗り、池袋で降りた。そこからは西武線が出ているが、頼りになる叔父の住む所沢に向かうつもりだった。 小さい頃、この叔父は祖母の家によく来ていた。母をお姉ちゃん、と呼んで慕っていた。そんな叔父の見て、昔、母は普通の女性だったのだと思い、嬉しく感じていた。 しかし、何となく昔の思い出を汚すような気がして。ホームの椅子に座った。何本かの電車を見過ごすとまた立ち上がった。 「帰ろう」 そう呟いて歩き出した。自宅は千葉にある。池袋から数駅乗り、いつもの黄色い電車に乗り換えた。 東京湾に近いところを通っているその電車はいくつもの大きな川をまたぐ鉄橋を渡って行く。 この時間の下り電車は空席が多い。座る気になれず、扉に寄りかかり、外の景色を見ていた。最後の橋を渡ると気持ちが落ち着いた気がした。 子供の頃、電車で一人になったことがある。母と乗ったはずが、母はホームに居たままて私だけが乗っていたのだ。私は電車の扉をバンバンと叩き 「お母さん、お母さん」 と叫んだことを覚えている。 いつも駅に着くと、朝ここを通った時とは違う気分でいるのがわかった。 バスに乗る気にもなれず、家までの30分近い道を歩くことにした。雨は止んで、少し日が差していた。 国道沿いをしばらく歩くと大きな神社が見えてくる。昔、ここでは夏祭りをやっていて、毎年行っていた。祭りにはいろいろな店が出ていた。 私はリンゴ飴が大好きで良くねだっていた。その時は母も一緒で楽しい思い出があった。 家に着くと、前の道には枯葉が散乱していた。雨と風邪が強かったせいだろう。 母はそんな物を掃除したりはしない。いつも狭い所でじっとしているのだ。たまにいつもようにドンと一度だけ足で壁を叩くような音を出した。 「お母さん」 私は扉を開けた。部屋の扉ではない。大きな冷凍庫の扉だ。私が殺した、冷たくなった母はいつもここでじっとしている。 「お母さん、ただいま」
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