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愛子
アイコ、起きて。凄くいい天気だよ。珍しく晴れてるんだ、ねぇ。
私は眠たい目を擦りながらカーテンを開けて外を眺めるフィリップに視線を向けた。彼は手に二つのマグカップを持っていて、起き上がった私に一つ差し出す。
また抹茶?という私の言葉に彼は笑いながら「仕方ないだろ?君のパパのミスだ」と言って笑った。
この前父が発注を間違えたせいでうちには大量の抹茶の粉が山積みにされている。せっかくイギリスに来たというのに寝起きに抹茶とは皮肉なものだ。
抹茶を飲もうとマグカップに口を近づけるとそれより先にフィリップの唇が私の唇に触れた。
「今日は天気がいいから公園に散歩でも行かない?」
「いいね。近くのベーカリーでスモークサーモンとチーズのベーグル買って行こうよ」
「もちろん。アイコの大好物だもんね」
フィリップは白い歯を私に向けて微笑んだ。
彼と付き合い始めてもう2年になるだろうか。イギリスに来たばかりの私を初めてデートに誘ってきたのがフィリップだった。彼は父が経営する輸入食品店の常連で、レストランのシェフだ。いつもワサビを買いにくる彼の顔を覚えていた私はそのデートの誘いを二つ返事で承諾した。
出会った頃からフィリップは紳士的で、いつも彼が言う「ハロー」は他のイギリス人よりも少し語尾が柔らかくて私は好きだった。
「今日は休みだしよかったらフィリップのママとパパも誘う?」
「いいの?」
「うん。メールしてみてよ」
フィリップは嬉しそうな顔でスマホをいじりはじめた。そんな彼の様子を見ながら私は抹茶を啜る。
彼は家族のことをすごく大切にしている。日本とイギリスでは家族に対する思いが少し違う気がする。私にとって家族は足枷でしかなく、物凄く閉塞的な空間だ。でも彼の家族は開放的で愛に溢れている。いつも笑顔で、余計な詮索はせず、困った時には手を差し伸べてくれる。
最初はアジア人と付き合うなんて、と差別されるんじゃあないかと心配だったが、彼の両親は笑顔で私を迎え入れてくれた。
それ以来私は彼の両親とランチやディナーを共にする事が多くなった。私の方から誘った方が彼らも喜んでくれる。
「喜んでだって。1時に待ち合わせでどう?」
「うん。いいよ。ママ達抹茶好きかな?」
「どうだろ。でもあったら喜んで飲むんじゃない?」
そうかな?そう返事をしながらも部屋にある抹茶を少しでも早く消費したかったため、棚から紙袋を出すと二袋そこに放り入れた。
「ねぇ、今度日本に行こうよ」
「どうしたの?いきなり」
「僕も日本で君のママや妹と会ってみたいんだ」
「会ってもいい事ないよ」
「なんで?仲悪いの?」
「もう2年間音信不通にしてるんだから想像つくでしょ?」
「どうして?なんでそんなにママと妹を嫌うの?」
フィリップの言葉に私はどうしてだっけ、とふと考えた。
そして多過ぎるほどの理由が頭に浮かんでくる事に自分でも驚く。
私は昔から母のことが嫌いだった。
双子というだけで同じ服を着させ、同じ習い事をさせ、同じ食べ物を食べさせる母に苛立ち、そしてそれを嬉しそうに受け入れている夢子をおぞましくも感じていた。
本当は私はピンクではなくグリーンが好きだった。でも夢子はピンクが好きで、私の服はいつも夢子と同じピンク色だった。母はきっと夢子の方が可愛かったのだろう。幼いながらに私の母に対する嫌悪感は彼女に伝わっていたのかもしれない。
でもそんな生活も大学生になれば解放されると思っていた。好きな大学に進学して、好きな服を着て、好きなサークルに入ろう。母の呪縛から解き放たれて自由に生きよう。そう思っていたのに夢子は違った。
夢子はしっかりと母の洗脳通りに出来上がっていた。
何をするのも私と一緒。大学もサークルもバイトも。私と一緒でなければ夢子は何もできない。でもそんな彼女でも男だけはどうにもできなかった。
大学三年生の時に付き合っていたマサトに夢子は「私とも付き合って」と言い、彼にも執着をはじめたのだ。愛子が好きな人はいい人に間違いない。そんな訳の分からない暴論を抱え、彼女は遂にマサトの家に隠しカメラまで設置した。
その時ようやく私は愛子から逃げる事を決心したのだ。
行き先も告げず、一切の連絡も断ち私はイギリスへとやって来た。
「アイコ、大丈夫?」
フィリップの手が私の肩に触れてハッとする。変なこと聞いちゃった?と申し訳なさそうな顔をする彼に私は首を横に振った。
「ううん。大丈夫。今度一緒に日本に行こうね」
そうは言いながらも私が日本に戻る日なんてくるのだろうかと考えた。
抹茶を飲み干してテーブルの上にマグカップを置くとパソコンのカメラの横が赤く点滅しているのに気づく。椅子に座ってスリープモードのパソコンに電源を入れるとカメラが起動していた。
「フィリップ、昨日スカイプした?」
「え、どうだろう。うーん。あ、オンラインゲームしたよ」
「あの喋りながらやるやつ?」
「そうそう。昨日はフランスと戦ったんだ」
最近フィリップはオンラインゲームにハマっていて、私が仕事でいない時はパソコンの前で何時間も過ごしている。
私はパソコンのカメラモードを遮断すると「ちゃんとオフラインにしといてよね」と言った。
ついでに溜まっているメールボックスを開くと、やっぱり開くんじゃなかったと後悔するほどの量のメールが表示される。
その殆どが夢子からのメールで私はぞっとした。
一番最初に表示されているメールはつい20分前に届いたものだった。一瞬躊躇ったが私はそのメールをクリックし、中身を確認する。
愛子。元気にしてますか?
私は最近家に篭りっぱなしで辛いです。愛子とまたお出かけしたいなぁ。
新宿に愛子の好きなコーヒーショップができたんだよ。早く帰ってきてね。
今日は珍しく晴れてるからお出かけでもするのかな?
夢子からのメールを見て私は振り返った。
後ろの窓からは雲ひとつない晴天がのぞいている。イギリスにいる事を知っているのか、それともただ日本が晴れているだけなのか。どちらにせよ私はメールを開いた事を酷く後悔していた。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
フィリップにそう笑いかけた後、私はパソコンの電源を切った。
シャットダウンされ真っ黒になった画面に私の顔が映し出される。それが一瞬夢子に見えて私は目を見開いた。
そこに映るのは私のはずなのに、夢子に見られている気がするのはどうしてだろう。
「アイコ、シャワー浴びないの?」
「あぁ、浴びるよ」
そう返事をしながら立ち上がり、バスルームに向かおうとした。でも気になってもう一度パソコンの画面に視線を向ける。
画面はオフラインで真っ暗だ。
でも、カメラの横の赤いライトはしきりに点滅を繰り返していた。
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