ママ

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ママ

テーブルに夢子の好きなビーフシチューと三越の地下で買ったチーズが練りこまれたバゲットを並べ、私は彼女の名前を呼んだ。 部屋から出てきた夢子はさっき着ていたパジャマから着替え、三年前に愛子がプレゼントしたピンク色の部屋着を着て重い足取りで席についた。 夕方、夢子の部屋からは必ずスカイプをしている声が聞こえてくる。愛子に拒否されてから彼女は家に引きこもり、パソコンの画面を毎日食い入るようにして見ている。愛子がいない寂しさをネット上の誰かで埋めているのだろうか。 私は彼女が双子の姉の愛子に依存していることにずっと前から気づいていた。気づいていてなにも手立てをしなかった。 愛子がイギリスに行ってしまったら自然と夢子も自分の人生を歩むだろうと思っていたし、寂しさから彼氏と同棲でもするんじゃないかとすら思っていた。でも実際の夢子は母親の私が思うよりもずっと繊細で愛子のことを愛していた。それは母親である私以上の感情であったに違いない。 私は自分のお腹で同時に彼女たちを育て、産み落としたが、彼女たちはずっと一緒に居たのだ。同じ景色を見て、同じものをへその緒から吸収し、一緒に産まれた。私には理解し得ない双子の絆がそこにはあるのかもしれない。 「今日は調子どう?」 私の問いに夢子は力なく首を横に振った。そして目の前に置かれたスプーンを手に取り、啜るようにしてビーフシチューを少しだけ口に運ぶ。 「病院変えよっか。青山にいいクリニックがあるみたいなの。そこの先生女の人でね、夢子には男の先生より女の先生がいいんじゃないかと思って」 「どこでもいい。どこでも一緒だよ」 「そんな、そんなことないわよ…」 無表情でパンをかじる夢子を見ていると私は発狂しそうになった。 彼女は愛子がイギリスに行き、帰って来なくなってからどんどん病んでいった。そしてせっかく就職が決まった大手の広告代理店を入社早々に休職し、ずっと家に引き篭もっている。 私はこの半年少なくとも六つの病院に彼女を連れて行った。 病名はどこでも鬱と言われ、薬は違えどどれも向精神薬を処方され、後は本人次第だと投げ出された。私はその度に泣いて医者を責め、自分を責めた。 愛子がイギリスに行く時に反対しとけば良かった。いや、もっと言えば離婚なんてするべきではなかった。きっと父親がいない寂しさが無意識のうちに夢子の中で膨らみ、それが愛子に対する執着に変わってしまったのかもしれない。 夫とは別に不仲ではなかった。でも滅多に家に帰って来ない彼を愛し続けるのは難しかった。離婚は結局私のただのエゴだったのだ。 きっと夢子は私のせいで家族という繋がりを歪な形で覚えてしまっている。いや、そもそも私は子供達とすら家族の絆を作れていなかったのかもしれない。今だって夢子は私ではなくパソコンの画面上の誰かに話しかけているのだから。 「ママ、うちのネットの回線って遅くない?」 「回線?Wi-Fiのこと?」 「うん。たまに画面がフリーズしちゃうんだよね」 「そう。今度調べてみるね」 「お願い。あと、私イギリスに行こうと思うの」 私はパンを咀嚼する顎の動きを止めて夢子を見た。口の中の水分がどんどんパンが吸収し、喉がカラカラになって粘膜同士が引っ付いていくのが分かる。 「イギリス行ってもいいよね?」 「駄目よ」 「なんで?」 「なんでって、なにしに行くのよ。あなた病気なのよ?」 「ママ、私寂しいの」 「ママがいるじゃない」 夢子はテーブルの上にパンを投げつけると私の方を睨んだ。自分の子供にこんな目で見られる日がくるとは思わなかったが、私はそれよりも彼女をイギリスに行かせてはならないと焦っていた。 愛子がイギリスに行ったのは夢子が怖かったからだ。 夢子はずっと愛子の恋人だったマサト君に嫌がらせやストーカー行為を続けていた。最初は二人のデートについて行くくらいの行為だったが、次第にエスカレートし、ついには彼の部屋に不法侵入し監視カメラまで設置していたのだ。 マサト君が気づくまでその監視は三ヶ月にも及んでいた。 夢子は愛子の全てを知らないと気が済まないのだ。双子の姉妹は全てを分かち合い、理解し合うのが当たり前だと感じている夢子の頭の中は狂っている。 そしてそんな娘と四六時中一緒にいる私も次第に壊れていっている気がしてならない。 「夢子。あなたはあなたで生きていかないといけないの。愛子とずっと一緒にはいられないのよ?」 「愛子が言ったの」 「え?」 「愛子の方が先に言ったの。ずっと一緒に居てって」 夢子はそう叫ぶと席を立ち上がり自分の部屋に走って行く。 待って。そう言って私は夢子を追いかけた。そして彼女が閉めようとした部屋のドアに無理やり手をねじ込み、扉を開こうとした。 彼女の部屋にあるパソコンには何故か青空の画面が映し出されている。 「開けなさい、夢子」 力を込めてドアを捻じ開けようとすると夢子は私の腕に噛み付いた。あまりの激痛に私が手を引っ込めると勢いよく扉は閉まり、鍵のかかる音が聞こえた。 自分の娘の名前を何度も呼んだ。 夢子、夢子。きっと愛子の何倍も私は夢子の名前を呼んでいる。 昔から夢子の方が賢くて、聞き分けが良くて、手のかかららない子供だった。だから私はついつい愛子より夢子を可愛がって育ててしまった。今だって働いてもいない彼女をこうして養っている。 十二分に愛情を与えてきたというのに、夢子はどうして私のことをこんなにも拒絶するのだろうか。 そう思えば思うほど私は彼女に対する愛情よりも憎悪が湧き上がってきた。 「あんた達なんか生むんじゃなかった」 扉の前で小声でそう呟いた。 でもなんとなく夢子が扉に耳を付け、私の言葉を聞いているような気がした。
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