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夢子
一人でいるとどんどん寂しさが塵のように心の中に音もなく積もっていく。その塵を払おうと私はパソコンの前に何度も座るけれど、電源を切ればまたどうせ寂しさに喉を掻き切られるのだ。
「そっちは天気どう?」
私の質問に愛子はどうかな、と言って席を立ち、デスクの横のカーテンを開ける。どう?晴れてる?そう聞いてみたもののパソコンの画面越しには晴れた青空が広がっていた。
「すっごい晴れだよ。イギリスって一年の殆どが曇りじゃないかってくらい天気悪いんだけど、今日はすごく晴れてる」
「東京は雨だよ。もうすぐ梅雨になりそうなの」
「夢子は雨が苦手じゃなかった?体辛いんじゃないの?」
「うん。雨の日はなんか頭痛がしてさ、ズキズキってよりもジーンって痛い感じのやつ。なんだか体だるいんだよね」
「そっか。早く晴れたら良いね」
そうだね、そう返事をすると急に彼女に触れたくなってたまらなくなった。
愛子がイギリスに留学に行ってもう二年が経とうとしている。彼女と離れて暮すのはこれが初めてだった。双子として産まれた私たちはずっと一緒に育ってきた。
母親の子宮にいるときから一心同体として生き、二人の間にはどんな秘密もなく、まさしく双子と言わんばかりの生活を送ってきた。私は愛子がいることが当たり前で、何をするにも彼女と一緒だった。
でも同じ高校、同じ大学へと進んだ愛子は徐々に私を避けるようになっていった。そして彼女は就職活動を機に父親が住んでいるイギリスに渡英したのだ。
愛子は大学に入ってから私のことを疎ましく感じていたに違いない。私は自分に恋人ができようが愛子を優先してきた。それが家族として、双子の姉として当然のことだと思ってきたが、彼女にとっては違ったらしい。
愛子は私より付き合っている彼と過ごすことの方が多くなり、家族で住んでいるマンションに帰ってくることも少なくなった。
私はその度に母親のように何処に泊まったのか問い質し、彼女を責めた。
どうしてそんな嫉妬めいた気持ちが生まれたのかは自分でも分からない。でも私にとって愛子は自分の一部だったのだ。まるで私の心と体の半分を愛子が持っているみたいに、私は一人だけだと人間として完成しなかった。
一人で生きていける愛子を羨んだりもして私も恋人と一緒に過ごしてみたが、誰も愛子ほど私のことを理解してくれなかった。だから彼女が黙ってイギリスに行った瞬間、私は深く絶望し、心は死んだも同然だった。
今はパソコンのスカイプ画面でしか愛子には会えない。
「夢子は最近どう?仕事には行けてるの?」
「ううん。行こうと思うと頭が痛くてまだ休職中。病院には行ってるんだけど精神的なものって言われて、正直もうどうして良いか分からない」
就職して半年で私は鬱になり、今はずっと休職している。生活の変化に心も体もついていかなかったのだろう、そう医者は言ったが私は鬱の原因は仕事ではなく愛子と離れたせいだと思っている。
画面の中の愛子は私を心配そうな顔で覗き込み、大丈夫?と言って首を傾げた。全然大丈夫じゃない。だから帰ってきて。そう言ってしまいたかったけど私は笑って大丈夫、と言って頷いた。これ以上面倒な姉だと思われたくなかったし、愛子を困らせたくもなかった。
「愛子はどうなの?お父さんの店で働いてるんでしょ?」
「毎日忙しいよ。この前お父さんが京都の抹茶店に発注間違えて抹茶が百キロも送られてきてさ、もう二ヶ月も抹茶フェアしてるんだよ?お客さんも次のイベントはなんだってうんざりした顔で聞いてくるしさぁ」
「お父さんらしいね。ちょっと抜けてるもん」
「でも仕事でもそれだと困るよ。私なんてせっかくロンドンにいるのに紅茶じゃなくて毎朝抹茶飲まされてるんだから」
愛子はイギリスで父の経営している日本の食品の輸入店で働いている。本当はロンドンの旅行代理店でコーディネーターとして働きたかったらしいが、経験のない人間はどこも門前払いで、泣く泣く父の元で働き始めた。
父と母は私たちが中学一年生の時に離婚した。でも特別悲しいとか寂しいとかって感情はわいたりしなかった。元々父は海外出張が多い人で滅多に家に帰ってこなかったし、母がいればそれだけで私たちは事足りていた。それに両親が離婚しようと私には愛子がいたから何も困ることはなかったのだ。
父がイギリスに移住してからも私たちは夏休みを使って遊びに行っていたし、家族が離れ離れになったという感情には陥らず、ごく自然と生きてきた。
「夢子もさ、日本が辛かったらイギリスに来たらいいよ」
「イギリス?」
「うん。少しは気晴らしになるんじゃない?」
「いいの?行っても」
「もちろん。なんで遠慮するの?私たち双子の姉妹でしょ?」
「愛子がいいって言ってくれるなら行こうかな」
そう言って笑った瞬間、部屋の扉がノックされた。そして母が私の名前を呼ぶ声が聞こえる。私は小声で「ごめん、ママだ」と画面に向かって言うとデスクトップのパソコンが置いてある席を離れ、少しだけドアを開けた。
「ママ?なに?」
「なにじゃないわよ。ご飯できたわよ」
「うん、すぐ行くから」
少しだけ開けた扉の隙間から母が部屋の中を覗いてくる。そして誰かと話してた?と怪訝そうな顔で私を見上げた。
「別になんでもない。着替えたら行くから」
そう言って半ば強引にドアを閉めると私は目覚めてからずっと着ていたパジャマを脱ぎ、愛子が二十歳の誕生日プレゼントにくれたピンクのベロアの部屋着に袖を通した。
私たちはきっと大丈夫だ。
パソコンがオンラインである限りずっと繋がっていられる。
そう思って顔を上げるとパソコンの画面にはもう愛子の姿はなくて、ロンドンの青空だけが映し出されていた。
私はその画面をしばらく見つめたが、再び母が私を呼ぶ声が聞こえて背中を向けて部屋を出た。
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