この場所にも、もう春はいないらしい

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この場所にも、もう春はいないらしい

 生温い空気を首筋に感じながら、葉桜が靡く並木道を歩く。  夕陽は西の山の背中に半分ほど隠れてもうすぐ月と入れ替わる時間だとでも言うようにそそくさと目に見える速度で沈んでいく。辺りに人影はひとつもなく、静けさが暑さを少しだけ和らげている気がした。今は五月で、暦の上ではまだ春が明けていないというのに、気温と日没の時間は五月(さつき)の山の向こう側に春を追いやるように夏の訪れを告げていた。  街が日没を受け入れたことを示すように街路灯が月明りの代わりにぽつりぽつりと灯り始める。頭上三メートルの高さから照らす光は眩しすぎるくらいにひとりぼっちの影を色濃く映し出して、より高い位置にある桜並木をも朧気に照らす。くすんだ光にライトアップされた桜の木の足元には白い花弁が疎らに咲いている。桜の花が散りきる頃、卯の花が咲きだす。この場所では春と夏の境界は二つの曖昧な白で塗りつぶされる。    遠くからいくつかの鳥のさえずりが聞こえて、まるで誰かを探しているかのように必死なその声に少しだけ笑みが零れた。  僕みたいだな、と自嘲じみた言葉が無意識に小さく零れた。ひとりなのに声を出して呟いてしまったことに少し恥ずかしくなったが、周りには誰もいないから何も問題はない。  しばらくすると物悲しく鳴く鳥の中の一羽が木の枝を揺らしながら羽ばたいた。ずっと探していたなにかを見つけたかのようにどこかを目指して一直線に飛んでいく。 ――やっぱり僕とは違うみたいだ。  まるで影がアスファルトに縫いつけられたようにこの場所からどこへも行けない僕とは違い、自由にどこへでも飛べるあの黄昏の鳥は僕のことなど一切気にすることなく、夕暮れの空に消えていった。  並木道を歩いていると道のほとりに木製の古いベンチが佇んでいる。雨風に曝されて黒ずんでいるそれは、この場所で起こった様々な出来事を見守ってきたかのように街路灯に穏やかに照らされていた。  疲れているわけではないけれど、少しだけベンチに座ってみる。  この道を歩いていると忘れたくはないけれど思い出したくもない記憶がどうしようもなくフラッシュバックする。轍のようにいつまでも胸に残る妄執じみた感傷はざらついた胸の痛みと古いアルバムをみているような心地よさを感じさせる。  鳥の声と風に草花が靡く音が傷口を優しく撫でるように通り過ぎる。  もう少しだけ、この音を聞いていよう。そう思い深く腰掛けて背もたれに体を預ける。何よりも大切で忘れることのできない、記憶の中の花吹雪に酔い痴れながら、飽きが来るまで、もう少しだけ。  あの頃、僕はたくさんの花の名前といくつかの名前がない感情の存在を知った。  メランポジウム、デイジー、ワスレナグサ、スノードロップ。その他にも様々な名前の花を知った。道端に咲く花の名前もいくつかは答えることができるようになって、その花々へ抱く感情も少しだけ身近なものになったような気がする。  それから、初めて心臓の位置を教えてくれたのもあの出会いだった。  あの澄んだ声で僕に語りかける言葉や長い髪を揺らして笑う表情、そういったとても小さなきっかけでこの胸の奥は張り裂けんばかりに脈を打って、その内に収まりきらないくらいに膨張した感情を必死に伝えてくるように、痛いほど胸が高鳴った。  その声や表情を何度でも、永遠に感じていたいと、そう願っていた。
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