ヒツジとオオカミ

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ヒツジとオオカミ

 一週間ぶりだ。  出張の荷物をガラガラと引っ張り、ようやく見慣れたドアの前にたどり着く。腕時計は午後八時を示していた。今日は金曜日。きっとイチはもう帰っているだろう。僕が帰ってくる日にイチが飲み会を断らなかったことはない。本人は「たまたま飲む気分じゃなかっただけ」と言って決して認めようとはしないけど。そのあと僕の土産物のワインを美味しそうに飲むのだから、嘘が下手すぎる。  ――そういうところも。全部。愛おしくてたまらない。  僕は口元が緩むのをおさえきれないまま、ドアを開けた。 「ただいま」  たった一歩室内に入っただけで空気が変わる。  僕は荷物を床に置き、革靴の紐を解く。手袋をしていなかった指先が悴み、いつもより時間がかかる。ようやくスリッパに足をのせたところで聞き慣れた声が耳に届いた。 「おかえり」  一番手前、寝室の扉が開き「帰ってくるの、今日だったんだな」と素っ気ない声が続く。僕を出迎えたわけではなく「たまたま寝室に用事があって出てきただけだから」とでも言いたげな表情。  でも。  僕が足を踏み入れる前から玄関のライトは点いていたし、イチが顔を出す前から扉は少し開いていた。何よりここまで流れてくる美味しそうなニオイはごまかせない。 「お土産。ワイン好きでしょ?」  僕は今すぐにでも抱きしめたい衝動を堪えて、スーツケースとは別に持っていた紙袋を差し出す。イチは受け取った紙袋の中を覗き「あ、これ美味しいヤツ」とかすかに声を弾ませた。 「寂しかった?」  僕の問いかけにイチはワインに視線を落としたまま答える。 「まさか。留守番させられた子供じゃあるまいし。俺のこといくつだと思ってんの?」 「寂しさに年齢は関係ないでしょ」  そっと後ろから肩へと回した手はするりと抜けられる。 「寂しくなんかありませんでした」  まるで感情のないロボットみたいな口調。  かわいそうな僕の左手は愛しい恋人の肩ではなく、置きっぱなしになっていた荷物を持ち上げる。イチは一瞬だけ視線を揺らし、すぐに僕を残して廊下の奥、リビングへと歩き出す。 (このまま一度寝室に荷物を置いてこようかと思ったけど……)  僕は呆れではなく溢れ出る愛おしさに息を吐き出し、手にしたばかりの荷物を再び床に戻す。 「へー。そうかい」 「なんだよ」  パタパタと軽い音を響かせていたスリッパの音が止まり、イチが振り返る。 「いや、オオカミ少年の話思い出した」 「なんで?」 「嘘を重ねると信じてもらえなくなる」  僕は右腕をその細い肩に回す。今度は簡単に逃げられないように。少しだけ強く。  ムッと眉根を寄せたイチだったけど、僕の腕を振り払いはしなかった。  一週間ぶりに触れた感触に寒さで強張っていた体が緩み、吸い込んだ空気に混ざる優しいニオイに心の奥まで温かくなる。  ――ずっと、これを求めていたのだと、実感する。  イチの目がまっすぐ僕を見上げてくる。丸い水面に僕の顔が映る。吸い込まれていくような感覚に、イチの中、そのずっと奥へと、僕を入れてほしくてたまらなくなった。 「嘘なんかついてないけど」  不機嫌な声にため息を混ぜ、イチは僕を引き連れたまま歩き出した。  歩きづらいから離れろ、と視線で訴えてくるが僕は気づかないフリで会話を続ける。  イチに逃げる気がないなら僕から離れるなんて無理に決まっている。 「そう、それ」 「どれだよ?」 「僕は嘘なんかついてない。真実を言っているんだ! って言っても信じてもらえない。まさに今の君は『オオカミ少年』だね」 「いや、今まで嘘ついた実績が俺にはないんだから、全部お前の受け取り方の問題だろ」  重なっていた足音が止まり、イチがリビングに続く扉の取手に手をかけた。 「……」  僕は何も言わず肩に載せていた手にグッと力を込め、イチを抱き寄せる。  手を離された勢いで取手が震え、扉は自然に開いていく。  暖房の柔らかな温度とおいしそうな匂いが流れてきたが、僕はイチを離さなかった。 「急になんだよ」  僕の胸の中で睨み上げるように唇を突き出しているが、その表情には戸惑いが浮かんでいる。  ――触れ合った体の先で、より大きな音を響かせているのはどちらの心臓だろうか? 「君は僕の告白になんて答えた?」 「は?」 「僕が君に『好きなんだ』って言ったら、『俺は好きじゃない』って言ったよね?」  僕の言葉に揺れてしまった瞳を隠すようにイチは大きなため息を吐き出し答える。 「その時は好きじゃなかったからそう言ったんだろ」 「二回目のときは『面白くない冗談言うな』で、三回目のときは『からかうのもいい加減にしろ』で、四回目のときは」  僕はイチの顔を覗き込んだまま言葉を連ねる。今は一瞬でもイチの表情を見逃がしたくない。 「おい。全部覚えてるのかよ」 「当然でしょ。一世一代の告白だよ。必死に振り絞った僕の勇気は粉々にされたんだから」 「っ……」  僕が悲しげな声と表情を見せるとイチは何かを飲み込むように喉の奥を小さく鳴らした。 「四回目のときは『そんなの信じられない』で、五回目のときは……」  僕はわざと言葉を途切れさせる。  イチは視線だけでも逃げようと僕の肩口を見つめたまま唇を動かす。 「……『俺も』」  それが空気をわずかに震わせる程度の小ささだったとしても。  鼓膜には触れないほどの距離で放たれたのだとしても。  声にも音にもならなかったのだとしても。  僕には聞こえる。僕には伝わる。僕には届いてしまう。  目の前にいる、腕の中にいる、この男が――イチが、愛おしくてたまらない。 「正直、僕の方が信じられなかったよね。散々断られて、お前なんか好きじゃないって言われ続けてさ。こんなに僕は正直な気持ちを伝えているのに。嘘なんかついていないのに。どうして信じてさえくれないんだろうって。僕は傷ついてたんだよ?」 「……悪かったよ」 「で? 本当は何回目から僕のことが好きだったの?」 「知るか」 「……ふふ」  抑えきれなくなった笑いがこぼれる。  触れ合わせている胸の奥がくすぐったくて、たまらない。  声よりも先に僕の振動のほうがイチには伝わっているだろう。 「何だよ?」  ようやくこちらへと戻された視線を僕はすかさず捕まえる。 「僕がいなくて寂しかった?」 「っ、……このヒツジやろう」  予想外の言葉がイチから飛び出し、僕はそのまま聞き返す。 「ヒツジ?」 「オオカミじゃないならヒツジだろ」 「それって僕が正直者ってこと?」 「そうだよ! お前は嘘がなさすぎるんだよ。なんでも直球すぎるから」  嘘をつくのが下手な僕の恋人。  どんな言葉も、どんな表情も、僕にはもう通じない。僕にはすべてわかってしまう。わかってしまう――のだけど。 「寂しかった?」  僕はイチから聞きたい。イチから教えてほしい。イチから伝えてほしくてたまらないのだ。  その声で、その言葉で、その表情で、イチの全部で僕に触れてほしい。 「お前は俺が嘘をつこうがつかなかろうが、勝手に都合よく解釈するんだろうが」 「まあ、僕ヒツジらしいから。嘘はつけないし。嘘はわかっちゃうよね」  素直じゃないところが可愛い僕の恋人。  声も言葉も表情も素直になれないのに、その熱だけはごまかしようもなく僕に流れてくる。  プイッと顔を背けたイチが無防備に赤く染まった耳を僕に見せる。  ――触れたら、もっと赤くなるだろうか。  目の前にある美味しそうな果実を食べようか悩む。味見、で止まれないのは自分でもわかる。何しろ一週間ぶりなのだ。それでもいいか、と思わなくはないけど。 「今日のメニュー何?」  僕は齧りつきたい衝動を抑え、息だけで触れる。  ビクッと肩を揺らしながらもイチは僕から逃げようとはしない。  ――頬も。首も。美しく、赤い。  体の奥からじわじわと熱が高まっていき、このまま自分の感情に流されてしまおうかと、イチの顎に指をかけたときだった。目線を合わせることなくイチが言った。 「……ハンバーグ」  落とされた答えが、僕の中で沸き立っていた感情にふわりと布を被せた。柔らかく温かく、暴れ出しそうだった熱がそっと包み込まれていく。  軽いリップ音だけを響かせて、僕はすぐに唇を離す。 「僕の一番好きなメニューだね」 「ひき肉が安かったからな」  僕が笑えば、イチは軽く頬を膨らませる。 「ふふ、やっぱり君はオオカミだね」 「なんでだよ」 「素直じゃないってこと」 「……早く着替えてこないと、俺が全部食べるからな」 「それは困るな」  僕はイチの額に唇を触れさせてから、寝室へと体の向きを変えた。  箸で割るとふわりと湯気が増す。柔らかな食感。口の中に広がる旨味。お店で食べるものよりも優しい味。ふわふわと口の中から美味しさが広がっていく。 「お豆腐入ってる?」 「うん」 「ふふ、美味しい」  イチが作ってくれるものは何でも美味しいのだけど。  出張帰りの僕の体調を気遣ってくれたイチの優しさが何よりも温かくて、くすぐったくて、僕を幸せにしてくれる。 「……よかったな」  向かいに座るイチがふっと表情を緩め、呆れたように笑った。 「うん」  目の前に愛しい恋人の顔があったら、ごはんは自然と美味しさを増していく。  僕は仕事の疲れを忘れてどんどん食べ進めていく。体の隅々にまでイチの愛情が行き渡るように。どこまでもイチを感じていられるように。咀嚼する度、飲み込む度、落ちていく確かな熱を感じる度、僕の心はイチで温められていく。  なんという幸福だろう。  僕は今さらながらに、イチを――この男を、諦めなくてよかったと強く、深く、思い、噛みしめる。  スープのおかわりをお願いしたときだった。 「あ」  僕は気づいてしまった。 「なんだよ」  キッチンのカウンター越しに振り返ったイチと目が合う。  僕はこの風景さえも幸せの一部なのだと実感しながら、真面目な顔でイチに言う。 「やっぱり反対かも」 「何が?」 「僕の方がオオカミかも」  僕の言葉にイチは「?」を顔に浮かべたまま、こちらへと戻ってくる。  コト、とスープのカップがテーブルに触れ小さな音を立てる。僕はゆっくりと目の前を離れていくイチの指を掴んだ。  僕よりも少しだけ低い体温。わずかな隙間から逃げようとするイチの手を僕は放さない。 「何?」  僕はイチの手を口元に引き寄せ、その白い肌に口づけをする。イチの料理で温められた僕の唇がイチの冷たい温度にそっと触れる。微かにイチが震えたのも、じわじわと熱が上がっていくのも、僕には隠せない。 「君は僕に食べられる方だもんね。そういうときは素直だし。オオカミなのは僕の方かなって」  いつもとは反対。僕がイチを見上げる。  言葉なんてなくても。離された視線が、振り払われた手が、赤く染まった肌が、目の前のイチの全部が雄弁に語っている。 「……黙って食え」  絞り出すように落とされた言葉に僕は笑って答えた。 「そうだね。久しぶりだからたっぷり味わって食べないとね」  どんなにお腹がいっぱいでも。  どんなに幸福を感じても。  どんなに時間が経っても。  ――僕はイチを求め続ける。  ヒツジ(イチ)を前にしたオオカミ(僕)が満たされることは永遠にないのだから。
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