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おはよう
夜が明けきらない朝に目を覚ますと、まずメガネを探す。
すると視界はクリアに。
悴む手に、はぁと暖かな息を吹きかける。
今日も「お母さん」になるために、勇んでキッチンの扉を開けた。
タイマーにかけていたご飯が炊けている。
白い湯気がキッチンを覆う。
おかげで少しばかり暖かくなってはいるけれど、凍えるほど寒い室内を温めるほどではない。
暖房器具もないここで、母は急いでコンロに火を付ける。そしてオレンジ色に揺らめく炎の上に、小さなフライパンを置いた。
オリーブオイルを少し垂らして、ソーセージをジュウジュウ焼く。
その間に、小さなボウルに卵を一つ、コツンと割った。ぷっくりした黄身を菜箸で勢いよく潰して一気に混ぜる。
溶き卵には少しの塩と少しのパセリ。
チーズを入れると美味しいと聞くけれど、そんなものは冷蔵庫には入っていない。
ソーセージがほんのり焦げて、慌てて小さなお皿にそれを移した。
同じフライパンの余分な油をキッチンペーパーで拭い取ると、オリーブオイルを入れ直して、溶き卵を少量注いだ。
フライパンを傾けながら薄焼き卵を作っていき、フライパンの奥から少しずつ巻いていく。
手前まで巻き終えると奥に戻して、残りの卵液をフライパンに敷き詰めた。
卵焼きとソーセージ。
ご飯はたまにはワカメご飯。
残りのおかずは冷凍食品。
これが、息子の毎日のお弁当。
大きい弁当箱の3分の2ほどにご飯を詰めて、気持ちほどのおかずを添えて、勢いよく蓋をした。
時計の針は午前5時30分を差す。
パタパタとスリッパを鳴らして息子の部屋のドアを、拳でドンドンドンドンと叩く。
「おはよう!朝よ!早く起きろ!!」
※ ※ ※
一時間に一本しかない高校行きのバスは、今日も午前6時30分に始発の便が発車する。
高校まで片道2時間かかるため、これを逃すと遅刻する。
母は再び拳で息子の部屋をドンドンドンドン叩いては、起きろ起きろと連呼する。
するとベッドから降りているらしき、木のきしむ音がして、母は満足そうにキッチンへと小走りで戻った。
キッチン側の脱衣所に置いてある洗濯機に前日の洗濯物を投入し、液体洗剤を適量入れる。
風呂の残り湯を吸い上げるポンプの付いたホースを風呂に投げ込んでいると、
「おはよう、」
いつものように、ひどい寝癖頭の息子が目を擦りながら声をかけてきた。
「はいはい、おはよう」と、母はおざなりに返事をするとキッチンに戻り、暖かいお茶を持たせるべく、やかんを火にかける。
「あんまり熱くしないでね、」
歯磨きをしている息子が、モゴモゴと注文をつけてくるが、はいはい、わかってるよ、と母はグツグツと沸きに沸いたお茶を保温式の水筒に注ぎ入れた。
お弁当と水筒を、黒いトートバッグに詰め込んで、また母はスリッパをパタパタいわせて玄関に向かい、下駄箱の上にそれを置いた。
そしてまたパタパタ戻ってくると、お弁当を作るのに出た洗い物をするため、水道の蛇口を捻る。
勢いよく出る水は、外気の影響からか、しばらく冷たいままだった。
暖かくなるまで待てない母がそれで洗い物を始めると、息子が「まだ水じゃん」とツッコミを入れて、しかし母の反応を待たずに部屋へと戻っていった。
すでに時計は午前5時50分を回る。
「急がないと、間に合わないよ!」
怒鳴る母の声を聞いて、息子は、よれよれの制服に、チャックの壊れたリュックを背負って、部屋からノロノロ現れた。
母よりも、もう頭二つ分は大きな息子。
こちらに背を向けて、母のそれよりはるかに大きくてボロボロの革靴をはく。
先日、新しい革靴を買おうかと尋ねたら、
「いらない。もう履かないし。」
と素っ気なく言われたが、やっぱり買えばよかったなと、母は思う。
玄関で靴の先をトントン鳴らし、息子は玄関の靴箱の上に置いていた弁当入りの黒のトートバッグを手にして、
「行ってきます、」
いつも通り、ぶっきらぼうにボソッと言った。
「行ってらっしゃい。忘れ物はない?気を付けてね。」
母もいつも通り慌ただしく大声で言う。
いつも通り、息子の返事はなかった。
そして玄関が開いて、冷たい風が家の中へと吹き込んでくる。それに逆らうように、真っ暗な朝へ向けて息子は出ていった。
今日は、息子の高校生活最後のお弁当の日。
そして3月になれば、高校を卒業する。
高校を卒業したら、県外の工業系の専門学校へいくことが決まっている。
「行ってらっしゃい」
誰もいなくなった玄関で、閉まった扉に母はそっと声をかけた。
※ ※ ※
息子は、幼い頃から要領が悪かった。
よく泣いたし、よく転び、よく幼稚園の教室から抜け出して、よく母に叱られた。
得意なことの方が少なく、しかしよくおしゃべりをしてくれる明るい子だった。
小学校に入っても落ち着かない性格は変わらず、明るくて元気はいいけれど、明るくて元気がいいだけで、勉強はできないし、運動も苦手だった。絵も下手だったし、歌もリコーダーも音外れ。
通知表には「集中力がありません」と毎年書かれたし、「もう少し頑張りましょう」の評価がずらりと並んだ。
それでも母は息子を心配していなかった。
忘れ物も多くて怒ったし、宿題をしなくて怒ったし、テストもひどい点数だったが、心配はしていなかった。
なぜなら息子は毎日笑って学校に行っていたから。
それは母にとって安心のバロメーターだった。
しかし、息子が中学生になると、息子の表情が一変した。
暗く、落ち窪んだ目をしていた。
家でもあまり話さなくなった。
学校から帰ると部屋に籠ることが多くなった。
なのに、母は日常の忙しさにかまけて、息子を心配してやれなかった。心配してやらなかった。
息子はそれでも毎日学校へ行っていた。
母はその事実に安心しきっていたのだ。
息子の精一杯の強がりに、気がついてやれなかったのだ。
※ ※ ※
中学2年生の秋。
夏休みが終わって少しして、息子はお腹が痛いと学校を休んだ。
母は「今日だけだからね」と釘を刺して仕事に出掛けた。
仕事から帰ってきても、母は息子を気にすることなく夕飯の支度をして、夕飯ができると息子に声をかけた。
すると息子はおずおずと部屋から出てきた。
ぼそぼそご飯を食べる息子を、視界の片隅にも入れず、母は洗濯物を取り込んで、それをたたみ、風呂を洗って湯を溜める。
その頃にはご飯を食べ終わった息子が食べた食器をシンクに重ねて置いていた。
母はそれを洗っているうちに、息子は部屋に戻ってしまった。
次の日の朝。
息子を起こすと、またお腹が痛いと言う。
「はあ?昨日夕飯食べたじゃない。お腹痛いならご飯食べられないでしょ!」
怒った口調の母に、
「でもマジで腹が痛い」
と主張を変えない息子。
母は時計を見やり、このままでは仕事に間に合わないと悟ると、
「今日だけだからね!」
と昨日より強めに念を押した。
ーー愚かな母だと、今でも思う。
母は、仕事の支度をしながら、当時を思い出して深い溜め息を吐いた。ーー
息子はイジメにあっていた。
それを母が知ったのは、息子がお腹が痛いと初めて休んだ日から、一週間後のことだった。
どんくさく、勉強も苦手な息子を、生徒の一人は面白がって小突き、別の一人は強めに叩き、また別の一人は蹴りつけて、ウザイと罵った。
女の子達は廊下で息子とすれ違ってはキモイと笑った。
狭い檻のような建物の中で、地獄のような毎日を、息子はずっと歯を食い縛ってたった一人、耐えていた。
しかし、耐えきれなくなって、学校へ行かれなくなった。
ベッドの上で布団にくるまり、籠る声で泣きながら、息子は死にたいと言った。
立ち尽くし、母は言葉を失った。
次の瞬間には、沸騰するほどの怒りに襲われた。
母は怒りをぶつけるように学校に電話をした。
文句の限りを言ってやるつもりで、しかし、何一つ上手く伝えることができなかった。
母はただ震える声で、
「今、死んでない息子を誉めてやってくれませんか」
とだけ告げて電話を置いた。
気づいてやれなかったのは、母も同じ。
学校の中のことは、母にはわからないが、それは言い訳であることも、母は知っていた。
母は声を殺して泣いた。
その翌日、息子は制服を着て玄関に立っていた。
母は慌ててその背を追いかけ、
「おはよう!いってらっしゃい!」
といつもより大きな声で言った。
「おはよう。行ってきます。」
息子はぶっきらぼうに答えると、玄関の扉を開けた。
※ ※ ※
中学3年生になり、息子は毎日学校に行っていた。
中学2年生の頃を思うと、学校へ行ってくれるだけで母は安堵した。
しかし、夏休み前の懇談で、息子が提出物を怠り、テストの点も芳しくなく、このままでは行かれる高校がないと告げられた。
愕然としたまま帰路へつき、家に着くや否や、鬼の形相で息子に問いただした。
「何やってんのアンタ!どうするつもり!?高校行かないの!?」
「…いや、行く」
「行けないじゃん!行くとこないって言われたんだよ!」
「うん」
「はあ?うんじゃないよね!?」
「うん」
話にならなかった。
息子は、怒る母から逃げるように自室に籠った。
怒りの収まらない母は、息子の部屋の扉をバンっと開け、
「どうするの!どうしたいの!」
「…高校行きたい」
「行きたいなら頑張るしかないのになんで頑張らないの!」
「…うるさい!」
息子は初めて声を荒げて、部屋の壁を拳で思い切り殴り付けた。
壁には大きな穴が空いた。
唖然とした母は、途端に顔を赤らめ牙を剥く。
「何やってんの!弁償させるからな!働き出したら利子つけてリホーム代払え!!」
息子はベッドに上がると布団に潜り込んだ。
最初に受けた二つの高校からは不合格の知らせが届いた。
母は県内の大小問わず、神社やお寺をくまなく周り、県内の神様全ての力を借りようとした。
願掛けに、毎日町内のゴミを拾った。
近所の神社には毎日参拝した。
ただただ「高校へいきたい」という息子の希望を叶えてやりたかった。
そして最後に受けた高校の合格発表の日。
帰宅した息子は、「合格したよ」と泣きながら笑った。
※ ※ ※
ずいぶん田舎の学校へ行くことになった息子のために、母はほぼ毎日朝5時に起きてお弁当を作った。
しかし、料理が得意ではない母の作るお弁当は、毎日決まって大きな弁当箱の3分の2にご飯を敷き詰め、卵焼きとソーセージと冷凍食品が詰まっている。
入学後しばらくして、空のお弁当箱を出しながら息子が言った。
「友達の弁当のおかずはお母さんの手作りで美味しかったよ。」
「友達の弁当のおかずもらったの?」
「うん。寮の奴からももらったけど美味しかった。」
母の、お弁当箱を洗う手が止まった。
振り返り、息子を見て、そしてすぐさままた空のお弁当箱に視線を落とす。
息子は、友達からお弁当のおかずを分けて貰っていた。
お弁当を分け合える友達ができていた。
泣いてはいけないと険しい顔で、母は素っ気なく、
「友達の弁当美味しくてよかったじゃん」
とだけ言うのが精一杯だった。
その息子が、明日、卒業式を迎える。
春から寮生活となり家から出ていく。
息子の部屋の壁には未だに大きな穴が開いている。
息子が高校を卒業して、この家を出ていくその日まで、太陽が昇る限り、母は言う。
「おはよう!早く起きろ!」
~了~
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