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 大した寂しさなどない。いつも通りのことだ。仕事を終えた平雅信は、がらんどうのアパートの一室へと帰った。  正直言って、結婚願望が無いわけではない。ただ、いつもタイミングが悪いだけだ。 三ヶ月前、合コンの誘いがあったときは、ちょうど仕事の繁忙期とカチ当たり泣く泣く断った。 先月たまたま女性から食事に誘われたこともあった。そのときは、父親の法事と被り断念した。また別日、と切り出すタイミングも見失って、話は途切れてしまった。  そんなこんなで、ことごとくチャンスを逃してきた。これではいつまで経っても、独り身だと小さくため息をつくこともしばしばであった。  かと言って一人であることが、特段嫌だというわけでもない。今日も、冷蔵庫を開けて、ご飯を作り、テレビを見て、風呂に入って寝る。 大体同じ毎日だが、何時にご飯を食べようが、何時までテレビを見ようが誰かに何かを咎められることはない。実に気が楽だ。    そして今日も冷蔵庫の扉を掴む。冷蔵庫の中身は質素だった。オイスターソース、ケチャップ、マヨネーズ、どれも残り少量だ。  あと卵とマーガリンと食パンが三切れ、豚肉も少しならある。野菜は玉ねぎしかなかった。このままいけば、今夜のご飯は有無を言わせずに豚丼になる。 そんなことを考えながら、食パンに目がいった。カビが生えて青くなっている部分があった。 「おいおい」 疲れたように雅信は食パンに向かって言った。この調子だと、明日の朝ごはんは目玉焼きだけってことになる。 食パンを買いに行くかどうしようか迷いながら、冷蔵庫の中の食パンを捨てようと手に取った。 「痛てえな。やめろよ」 雅信は食パンを床に落とした。今、確かに声がした。恐らく食パンから。汚いものを拾うかのように、人差し指と親指で食パンを摘んだ。 「そうやってまた、俺らの居場所を奪うつもりか」 また声がした。女に近い声だが、若い男だろうか。しかし、家の中を見渡す限り人の気配はない。  「どこ見てやがる。俺はお前が今、汚物扱いしてるものだ」 食パンを覗き込むと、食パンのカビがもぞもぞしていた。 「どうも。こちらカビでーす」 食パン、ではなく食パンに繁殖したカビが話しかけてきたらしい。たしかに、食パンに生命体とも言える何かを感じた。 「お前今俺らのこと捨てようとしただろ」  カビはどうやら腹を立てているようだった。自分たちの生命を無下に扱われたのが気に入らなかったのだ。 「いやだって、カビ生えたら捨てるでしょ」 負けじと雅信は反抗した。目の前で起きている、非現実的なことに対して、あまり深く考えないようにしていた。 「それにお前らみたいなカビとか、そういう菌類がいるから俺はこれから明日のパンを買いに行かないと行けないわけで」 「お前今なんて言った?」 「え?」 目の前にいるのはただの食パンに生えたカビだ。このまま捨てようと思えば、いつでも容易く捨てることはできる。なのに、言い切れぬ不安感を抱かされた。 「お前らは生まれてからずっと、俺らからの恩恵を受けてきてるくせに、よくもまあそんなこと言えたな。都合のいいように使いすぎだろ、糞が」 今にも唾を吐きそうな言い方だった。
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