第一章・第一節 知らない世界からこんにちは

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第一章・第一節 知らない世界からこんにちは

 時刻は17時半を過ぎた頃か。いや、18時を回っているだろうか。太陽は立ち並ぶビル群の間に隠れ始め、街には茜色の光が差し込んでいる。駅には多くの利用客が集結し、帰宅する者、買い物をする者、待ち合わせをする者、或いはこれから出掛ける者で溢れていた。 「はッ、はッ、はッ! ……んぐッ!」  そんないつも通りの日常の中、俺は、こんな住宅街でこんなスーツ姿のまま全力で走っていた。運動の為でも、ましてや帰宅する為でもない。俺はあるものから逃げる為、人目も気にせずこうして走り続けているのだ。 「……ク、ソッ! しつッけーな……!」  チラリと振り返った俺の目に映るモノ。ふわふわと宙に浮き、長い黒髪の間から気持ちの悪いキラキラの眼球をチラ見せしつつニタニタと俺を追ってくる異形の存在……そう、霊である。 「ちッ、ぎしょぉ……!」  この霊って奴は、どういう訳か俺ばかりを狙って襲ってくる。いや、本当に俺しか狙っていないのかは定かでは無いが、少なくとも俺が覚えている限りでは、例え周りに誰が何人居ようとそこに俺が居たならば、連中は真っ先に俺を狙ってきた。朝だろうが寄るだろうが、疲れていようが腹が減っていようが一切お構いなしだ。いつもいつも、こうなのである。 「たまには他の奴ンとこ行けってんだよ!」  思わず霊に向かって文句を垂れてみるが、当然霊なぞがこちらの言葉に耳を貸すわけも無く、奴は相変わらずのニヤケ面で俺を追ってきていた。 「ちっくしょォ……今日も最高に最悪だぜ……!」  今日はとある企業へ面接をしに行っていたのだが、運の悪いことにそこでも霊と遭遇してしまったのだ。しかし今後の生活を優先した俺は何とか気が付かない振りをしながら面接を続けることにした。だが向こうは”俺が気付いている”ということに気が付いたようで俺に熱烈なアピールを始め、遂に耐え切れなくなった俺は面接そっちのけでその場から飛び出してきてしまったのだ。  (今更だけど、ありゃあもう駄目だよなぁ……。はぁ、せっかくいい感じだったのに……) 「……ッぁぁああああ、もう! ふざッ、けんな! 何で俺ばっかりッ、こんな、目にッ、はぁッ、合わなきゃいけねーんだよ!!!」  恐怖と怒りで滅茶苦茶になった頭をぐしゃぐしゃと掻きむしり、ブツブツと文句を垂れながら汗だくで逃げ回る。すると周囲の通行人たちがチラチラと奇怪な目を向けてきていることに気が付いた。霊の姿を見ることの無い人間には、今の俺の姿が滑稽に映るのだろう。  それだけでも十分心を抉られるような思いになるのだが、何と今回は正面から歩いて来た見るからに性格の悪そうな女子高生三人組が、ゲラゲラとこちらを指さしながらスマートフォンを向けてきた。 「待って、あの人ヤバくない?!」 「うわっ、チョー必死。えっ、ウケる何あれぇ? きんもッ!」 「ぶふぉッ?! めっちゃ必死テラバロス!!!」  それに釣られたであろう周りに居た他の連中もクスクスと嘲りの眼差しをこちらに向け始め、何も悪いことをしていないはずの俺は無意識に自分のつま先を見つめながら走っていた。  (……好き放題言いやがって。テメーらに、何が分かるってんだ……! そんなに面白いと思うなら、変わってくれよ! それでも同じことが言えんのかよ?! 何も知らないくせに……ふざけんじゃねぇよバカヤロー!!!)  そんな悲痛な叫びを胸の内に木霊させながら、いつの間にか俺は自分の……真宮 司(まみや つかさ)という人間の、これまでの数年間に及ぶ孤独で虚しい人生を振り返っていた……――。  ――――――――――  ――……目が覚めたら東京都内某所にあるボロいワンルームで横になっていた俺。後で分かったことだが、どうやらここは俺が一人暮らしをしている部屋だったらしい。らしい、と表現したのには理由があって、実はこの時の俺にとっては、ここは初めて見る場所だったのだ。  俺はこの時18歳だった。しかしそれ以前の……目覚める前の記憶は全くなく、親類縁者についての情報も何一つ手元になく、目が覚めたと同時に俺は店外孤独の身となっていた。 代わりにその部屋にあったのは必要最低限の生活必需品と、200万円という大金の入った通帳。そしていつの間にか入学することになっていた大学の学生証とそこに記載されていた”真宮 司”という名前……それが、俺の全てだった。  それから入学一ヵ月後くらいまでは、俺の日常は比較的平和なモノだった。普通に買い物をして、大学で知り合った何人かと授業を受けたり飯を食ったりと、およそ大多数の若者が体験するであろう日常を、霊とは無縁の日々を、俺はそれなりに満喫していたのだ。  しかしそんな日常が、ある日をきっかけに全て壊れた。  それは大学でよく分からずに入ったサークルで肝試し大会をした時だった。この時はまだ霊という存在自体知らなかった俺は、何も身構えることなく行事を楽しんでいた。 だがその帰り道、台数こそ少ないがそこそこ良い勢いで車が駆け抜けていくような車道に、俺は突き飛ばされた。幸いギリギリ事故にはならずかすり傷程度で済んだのだったが、周りの様子がどうもおかしい。というのも俺自身は間違いなく誰かに突き飛ばされたものだとしか考えられなかったのだが、目撃者が言うには”俺が突然一人で車道に飛び出し自殺を図ったようにしか見えなかった”とのことだった。  そしてその日をきっかけに俺はこの世の者ではない霊という存在をはっきりと認識するようになり、時に襲われ、時に騒ぎを起こし、俺という人間の評判は面白いほどガタ落ちしていった。今までそれなりに親しくしていたはずの人間は俺を避けるようになり、居心地が悪くなった俺は例のサークルを逃げるように脱退した。  しかし噂というのは厄介なもので、その後も至る所で「幽霊小僧」だとか「自称霊能力者」だとか影口を叩かれるようになり、大学に入って半年と経たずに俺は独りぼっちになった。 そう言えば俺をバカにしてくる連中の中には、女の頭部を持つ蛇の霊を腰に巻いた男や複数の赤子に纏わりつかれていた女なんかが居たりもしたが、あれは今頃どうしているのだろうか。いや、どうなってようと知ったこっちゃないが。  とまぁこのように最悪な大学生活を過ごしていた俺だったが、コトは大学内だけでは済まず、バイト先、果ては何てことは無い路上を歩いている時ですらも色々な目に遭ってきた。  例えば、配達のバイトをしていた時の話だ。 夜に墓場から子供が飛び出してきたり、どっから出てきたのか分からない謎の腕にハンドルを取られて事故を起こしたのは実に4回。他者を巻き込むことなく俺もほぼ無傷で、精々がバイクの修理費くらいで済んだのは不幸中の幸いだったが、それが霊のせいだと証明できるのは俺の証言以外存在せず、「3度までは許す」と言ってくれていた店長に4度目の事故報告をしたその場で、俺はクビを言い渡された。  引越しのバイトでも色々とあったが、決定打となったのは、あの日の出来事だ。 その時俺は、依頼者の家宝とやらを運ぼうとしていた。しかしそれに触れた瞬間俺は意識を失った。その後のことは他の人間から聞いたのだが、どうも俺は突然依頼者を口汚く罵り始め、遂には勢いそのままに依頼者に襲い掛かったらしい。幸いにも屈強な2名のスタッフが居たおかげで大事には至らなかったものの、依頼者は激怒、或いは恐怖して警察を呼び、俺は暴行未遂で逮捕される……普通はこんな展開になっていたはずだ。 だが依頼者は怒るどころかむしろ顔を青くしながら謝罪を繰り返し、まだ作業も終わってないのにも関わらず費用全額と幾らかの”迷惑料”を押し付けて、無理矢理帰らされたらしい。俺は意識を失ったまま病院に担ぎ込まれ、何日か後に職場へ復帰するとすぐに上の方から呼び出され、そして「悪いけど」と給料と”迷惑料”の半分を渡されて、クビになった。  ちなみに病院には2日程滞在していたのだが、この時も酷かった。 特にベッドで寝ている時にカーテンの隙間から伸びて来た腕に首を絞められた時と、皮膚が焼け爛れたような何かが覆いかぶさるように俺の顔を覗き込んでいた時。あれはもう駄目かと思ったものだ。  他にも漫画喫茶のバイトでは誰も居ないはずの個室に閉じ込められたりパソコンに不気味な女の顔が映ったりして大騒ぎしてクビになり、倉庫管理のバイトでは作業中に足を掴まれて顔面を強打したり俺が入ると必ず怪我人が出るからと言われクビになり、清掃バイトでは霊に追いかけられそのまま逃亡してクビになり……という風に、とにかく俺は行く先々で霊に襲われ、その度に仕事をクビになってきた。  それは何とかギリギリで大学を卒業して社会人になってからも相変わらずで、いつどこで襲ってくるか分からない霊のせいで次々と転職を余儀なくされた俺は、今はコンビニのアルバイト店員として日々ギリギリの生活を送っているのだった。  理解者が居るならまだ良かった。対策方法が分かるならそれでもいい。だが俺には理解者どころか友人と呼べる存在すらおらず、俺は霊が見えるだけのただの一般人で、それ以上のことは何も出来ない。そんな俺にしか見ることが出来ず、そしていつもいつまでも執拗に付け狙ってくる霊という存在。それが俺の人生を、滅茶苦茶にする……――。  ―――――――――― 「――……あッ! ぶぇッ!」  つい考え事をしていたからか、それとも体力の限界が来たのか、足がもつれて全力ですっ転ぶ。 「うぐッ……いッ、でぇ……!」  周りには何人か居たが、全員がただチラチラと見てくるだけで手を貸してくれるような人は一人も居なかった。  (もう最悪だ! 何もかも最悪だよチクショウが!)  やり場のない怒りを堪えながら一人で立ち上がり、再び走り出す。俺がどうなっていようと、奴らには”タイム”というものが通用しないのだ。 「ぐッ……そッ……!」  どれくらい走っているのだろう。多分、体力はとうの昔に底を尽きているだろう。頭が重たく思考がまとまらず、足腰はコンクリートでも流し込まれたかのように重たい。それでもまだ走り続けているのは、まだ俺は、死にたくないと心のどこかで願っているからなのだろうか。 「はぁッ……はぁッ……」  (どこまで逃げればいい? いつまで逃げればいい? 俺は……俺はいつまでこうして……)  徐々に朦朧としてくる意識の中、俺は自分のこの呪われた人生に絶望していた。  (何で……どうしてだ……! 俺はただ……普通に、生きたいのに……!)  気が付けば俺の頬を涙が伝っていた。本来こんな状況では水分も塩分も少しでも節約すべきなのだろうが……今の俺に、そんなことに気を回している余裕などは無かった。  (……誰か……誰か、助けてくれよ……!)  しかし、俺の頭にはこんな時に助けてくれそうな人の顔なんてものは、誰一人として浮かんでこなかった。  (誰でもいい……誰でもいいから……誰か……!)  悔しさと情けなさと恐ろしさと心細さと……そんな色んな感情が次々と溢れ、それを拭いながら、茜色だった空に藍色のコントラストが掛かり始めた頃合いの住宅街を走り回っていた、その時だった。 「うわっ?!!」  曲がり角を曲がった瞬間曲がった先からやって来ていた人物と正面からぶつかってしまい、俺は思い切り吹き飛ばされた。 「いッ、たッ……!」  背中から地面に着地して2回転した俺は痛みで(うずくま)るが、すぐにハッとして目を拭い、顔を上げた。 「す、すみません! 大丈夫ですか?!」  これほどの衝撃だ、相手も無事では済まないだろう。そう思っていたのだが、スーツを着たその人物はまるで何事も無かったかのようにその場に立っていた。 「あ、れ……?」  他に人は居ない。俺がぶつかったのは電柱やポストなどでは無く、間違いなく人間だった。ということは俺がぶつかったのはこのスーツ姿の男で間違いないはず、なのだが……。  (俺、今ぶつかったん……だよな? え、あれ?)  状況が理解できずにポカンとしていると、相手の男が低く「おい」と言いながら近づいて来た。 「……!!!」  街灯に照らされた男の頭髪は真っ赤で、まるで燃える(たてがみ)のように揺らめいていた。そして男は、すっかりへたり込んだ俺の前まで顔を近づけて来た。 「テメェ、どこに目ん玉付けてやがんだ? あ?」  向けられた瞳はその頭髪と同じ、燃えるような赤色をしていた。
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