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オープニング「はじまり、はじまり~」
夏の盛りが過ぎ、大学キャンパスに植林された木々の葉を爽やかな風がなでていく。
日中の気温はまだ高く、うっすらと額に汗が浮かぶものの、夏と秋のグラデーションに彩られた大気が湿気をサラリと拭ってくれる。
午後の大学構内は次の講義に向かう者、早々にアルバイトへ急ぐ者、設置されたベンチに寝転がって惰眠を貪る者などがいた。
平和な日本を象徴する風景である。
「おらっ、どかんかい!」
「ボーっとせんと、道をあけろや」
「ちんたらしてんじゃねえぞっ!
わしらのお通りじゃ」
のんびり流れる空気を、ドスの効いた太い声が一気に乱した。
静寂をたたえた湖面に、いきなり大きな岩が放り込まれたように波紋が広がって行く。
瞬間にやわらかな大気が凍りついた。
まさか構内に、暴力団がなだれ込んできたのか。
いや、そうではなかった。
白い道着を着た数名の男子学生が下駄の音を響かせながら、キャンパスの小道を、肩をいからせ歩いてくるのだ。
道着の左襟には「中京都大学」と、太い筆文字が入っている。
剣呑な雰囲気を発する十名ほどの集団は、スキンヘッドあり、剃り込みの入った角刈り頭あり、学生の分際で鼻の下に髭を生やした者もいる。
大学生というよりも、歓楽街をシマに持つ愚連隊だ。
彼らが通る道は、蜘蛛の子を散らすように誰もが足早に逃げていく。
「いやだぁ、まるでチンピラね」
少し離れたベンチに座っている、三人の女子学生たち。
そのうち二人が、眉間にしわを寄せて人群れを見ていた。
「あれ、空手部の人たちでしょ」
右端の女子がそっと口を開いた。
普通の話し声が聞こえる距離ではないのだが、用心を重ねているかのような声音だ。
「そうそう。
なんでも常に全国大会で、ベスト・フォーに入る強豪なんだそうよ」
真ん中に座る子が指を立てる。
右の子が憤慨した口調で、「だからって、あんな態度ってどうなの」と頬をふくらませた。
~☆~☆~
愛知県名古屋市。
人口二百三十万人を超える政令指定都市である。
名古屋市昭和区の、国道百五十三号線から北上する『山手グリーンロード』沿いには、国立名古屋大学を筆頭に四つの大学がキャンパスを構えている。
そのひとつがこの私立中京都大学だ。
中京都大学の体育会系クラブは数あれど、この空手部員たちほど性質が悪く他の学生たちから蛇蝎のごとく忌み嫌われている連中はいない。
さすがに恐喝や暴力を表だってふるうわけではないのだが、それに近い犯罪すれすれの行為は日常茶飯事であった。
他の武道系クラブ員たちでさえ、キャンパスを我が物顔でのし歩く空手部との関わりは極力避けている。
なぜ彼らの穏当を欠く行動が許されているのか。
それは単純明快に、「強い」からである。
クラブ設立以来、全日本学生空手選手権で常に上位に名を挙げ、アミューズメント施設のボーリング場に、ピンとして提供できるほど多くの優勝トロフィーやカップを、栄誉と共に大学へ持ち帰ってきているのだ。
中京都大学に空手部あり、なのであった。
本来武道を志す者は、強ければ強いほど謙虚であるべきなのだが、その教育指導が甘かった。
いや、欠落していたようである。
体育会系の部活をまとめる自治会さえも、空手部の言いなりであった。
戦績が全ての体育会だからだ。
大学側も学生たちの自主性を重んじると称し、黙認状態のままである。
さらに、空手部顧問は、自称極真空手名誉十段の体育学部長であることも彼らが図に乗る一因であった。
将来の学長候補ともくされている、エラい教授なのだ。
「犯罪にさえ手をつけなければ、多少のやんちゃは他の学生たちに活を入れる意味合いで構わぬでしょう。
いまどきの学生たちは、あまりにも腐抜けておる」
などと教授会でもふんぞり返ってご高説を口にしているらしい。
~☆~☆~
「へえっ、あれがウワサの連中なんだ」
左端に座ってスマホの画面を見ていた女子が、ようやく気づいたように顔を上げた。
薄茶色の大きな瞳に、極悪集団の姿が映っている。
「ふーん、いかにも頭が悪そうな男どもね。
武道家が聞いて呆れちゃうわ。
実るほど、冷汗垂れるなんちゃらって、どうせ知らないんだろうなあ」
「冷汗じゃなくて、コウベよコウベ」
「コウベでもヨコハマでもいいけどさ。
誰かが一発ガイーンとやっちゃえばいいのよ」
「はあっ?
そんなことしたら、それこそボコボコにされちゃうわよ」
「それもそっかあ。
あっ、もうこんな時間だわ。
アルバイト行かなきゃ。
じゃあね、お二人さん」
その女子は立ち上がると、もう一度通り過ぎていく空手部員たちの背中に視線を飛ばした。
そして意味ありげにニヤリと笑みを浮かべるのであった。
つづく
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