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第三章「恐怖の都市伝説」
第一話「さらなる怪奇譚」
「真由まゆピー、ここ、ここよぅ」
むつみはちょび髭野郎を軽く無視し、とびっきりの笑顔で振り返る。
そして列の最後尾の、さらに遠くで躊躇している友人に手を振った。
あっさりと空気のごとく無視されたちょび髭野郎の額に、ピキキッと青筋が浮かぶ。
「くぉらあ!
聴こえねえのかっ」
プロの極道者も背筋を伸ばす怒声を張り上げた。
舐められたら終わりだ。
空手の試合でも、開始前にいかに相手を飲み込むかが勝負なのである。
実戦で鍛え上げたテクニックだ。
おもむろに拳を握りしめ、振り上げた。
あくまでも威嚇であるが。
その直後。
ちょび髭野郎の後ろに並んでいた男子学生が半目でむつみを見るなり、思いっきり眼を開き「ヒーッ!」と顔を引きつらせながら、あわててその同級生の袖を引っ張った。
「ま、待て待てっ、待ったあ!
早まるなあ!
このオンナ、いや、このおかたに優先権があるから、先に行っていただけーっ!」
「ああん?
なんでわしらが譲らなならんのじゃ!」
二番目に並んで顔面を硬直させているのは、先だってむつみに遭遇した角刈り頭剃り込み入りの部員であった。
味噌汁茶碗に、生きたままのゴキブリを放りこまれた本人であったのだ。
あれ以来、トラウマとなり味噌汁がどうしても飲めなくなっていた。
必死の形相でちょび髭野郎に目配せする。
頼むから、お願いだからこの女子と関わらないでくれと、訴える。
さらに後方に並んでいる空手部員たちの中で、あの日居合わせた連中もむつみに気づき、手でジェスチャーしながら、首を思いっきり横に振っている。
ちょび髭野郎は眉を八の字にし、そこでハッと思い当たった。
例の「戦慄のサイ子」が学食に現れて、あやうく同部の仲間が餌食にされるところであったと聴いていたことを。
その女子学生と関われば、最悪命に関わる被害に合うか、精神に異常をきたしてしまうらしいとも噂されている。
~☆~☆~
部室であの日、話題になっていたのだ。
学食に「戦慄のサイ子」が突如現れ、偶然居合わせた部員、つまり角刈り剃り込み野郎に、あろうことか生きたゴキブリを食わせようとしたことが。
実はこれ、かなり話を盛っている。
サイ子はゴキブリ以外にもタランチュラや毒蜈蚣を常に懐に忍ばせており、気に食わない相手のバッグの中にいつの間にか放り込むとも噂されていた。
こういう都市伝説は相当脚色、誇張されていることが多い。
いかに怖く語り継いでいくかがポイントなのだから。
「そんな異常者なら、この拳で一発ガツンと」
空手部の部室でたむろしているひとりが息巻いた。
それを、頭髪と眉を剃り落とした強面の部員があわてて止める。
「やめておけ!
噂じゃよう、日本拳法部の奴が相手をしようとしたんだって。
ところが」
ゴクリと嚥下する音に、部室はシーンと静まり返る。
「いきなり催涙スプレーを浴びせられてな、ひるんだところにスタンガンで気絶させられたんだと」
「ゲッ!」
全員が苦悶の表情を浮かべた。
「しかもだ。
気絶している間にな、鼻の穴に生きたままの蟷螂を胴体半分まで詰められてたんだと。
それを強力瞬間接着剤で、蟷螂を詰めたままの鼻の穴をな、カッチンカチンに固められちゃたんだってよう!
さらにだ。
両方の耳の穴には、この人差し指くらい太い蚯蚓を同じように差し込まれてさ、強力接着剤でこれまたカチンカチンに」
全員がその姿を頭に描いた。
鼻の穴からは鎌を振り回す蟷螂、耳の穴からはヌチャヌチャと蠢めく蚯蚓を生やした、日本拳法部員。
もはやギャグを軽く通り越して、パーフェクトに猟奇な世界である。
想像を絶する苦悶であっただろう。
いや、蟷螂と蚯蚓のほうが、である。
「マ、マジか」
「ああ、マジらしい。
だからな、君子危うきに近寄らずってことなんだよう!」
オールバックの部員が、震えるような声で言うのであった。
~☆~☆~
その話を思い出したのだ。
「えええーっ!」
ちょび髭野郎は細い目を見開き、目の前でトレイを三つ並べているむつみを凝視した。
まさかこの横入りしてきた女子が、あのサイ子であったとは!
確かに見た目はかなり可愛い。
いや、可愛いの最上級だ。
噂通りのすこぶる美女である。
小顔でスタイルも良い。
こっそりテレビで見て応援しているアイドルタレントよりも、数十倍可愛いと言っても過言ではない。
ただちょっと引っ掛かるのは、バストが期待していたほどではなかったという点だ。
見落としているのかと思われるほど、潔く膨らみが、ない。
それが妙に残念ではあった。
いや、そんなお下品なことを残念がっている場合ではない。
この女子に一度目をつけられれば、二十四時間いつどこから襲ってくるのかわからない。
蟷螂は大丈夫だが、蚯蚓はかなり苦手だ。
ましてや強烈なストーカー行為などされようものなら、恐怖で精神がおかしくなってしまうかもしれないのだ。
「なっ、なっ!
だから何があろうと、絶対に関わるなよ、お願いだから」
「あ、ああ、そ、そうじゃな」
空手部員たちは互いに目配せし、一歩づつ後退した後、さらに二歩後退した。
完全に「戦慄のサイ子」と勘違いされている、むつみ。
「真由ピー、食券、食券ってばあ。
あっ、おばちゃん、ひとつはご飯大盛りでお願いね」
ニタリと目を細め、空手部員たちをゆっくり振り返る。
先日のお灸が効いたのかしら、と溜飲を下げるむつみ。
ゲゲッ、顔を覚えられる!
と、黒帯の猛者たちは、ビクンッと身を縮めてすかさず目をそらせたのであった。
~☆~☆~
「むつみ、あの人たちになにかしたの?
まるで野生のグリズリーに遭遇したみたいに、顔面が真っ青だったけど。
空手部の人たちでしょ、後から仕返しされないかなあ」
「まっさかあ。
それはぁ、あたしのあまりのかわゆさに、見惚れていたってことよ。
仕返しできる度胸なんて、あるわけないじゃん。
ちいちゃな虫でさえ怖がるんだから」
「ムシ?
昆虫のこと?」
「いいからいいから。
ささっ、温かいうちにいただきましょ」
三人はごったがえした学食の中にあって、ちゃっかりとランチタイムを楽しむ態勢に入った。
「えっ、どういうこと、真由ピー」
席取り係を命じられたあいちゃんは、事情を知らない。
「やはり器量が良いってことは、なにかとお得よねえ」
おほほほっ、と口元を隠すむつみ。
体育会系男子が注文したようなテンコ盛りのドンぶりを片手に、コロッケをぱくりと美味そうに口に運ぶむつみに対し、他の二人は小さなお茶碗のご飯であった。
やはり体型を意識するお年頃なのだ。
むつみは一切気にしない。
いくら食べても身につかない、羨ましき強力な消化器官に感謝である。
「午後の講義が終わったら、またアルバイトへ行くの?」
真由ピーは箸を口にしたまま、むつみに訊く。
「うん。
今日は新しく舞い込んだお仕事でね、天白区の平針ってとこへ行くの」
「あら、じゃあわたしの地元じゃない」
真由ピーが盛られたキャベツを突き、むつみの食べっぷりを眺める。
相撲部屋の力士たちが、チャンコを食すテレビのシーンを連想しながら。
「そうか、真由ピーは自宅通学だったよね」
「むつみが羨ましいなあ。
わたしも一人暮らししたいわ」
おしゃべりをしながらの食事は、女子にとってもっとも楽しい時間だ。
「今回はどんなお家のお掃除なの?」
「へへえっ、これがね」
むつみは沖田ソウG社から引き受けた経緯と、沖田社長や社員たちがイケメン揃いであることを自慢げに語る。
「へえっ、知ってるよ、その会社。
あのCMソングだって歌えるわ」
「ちょっと待って」
あいちゃんの言葉を、真由ピーが手を上げて止める。
「むつみ、もう一度その家がある住所を教えて」
急に真顔になる真由ピーに、むつみはとりあえずドンぶりのご飯を口に放り込み咀嚼した。
「うん?
四LDKの一軒家」
「いやいや、間取りじゃなくて、そのお家の場所よ。
今言っていたでしょ」
むつみはごくりと口中のご飯を飲み込んだ。
「えっと、天白区平針の」
「平針の土管味ヶ丘、って言わなかったっけ」
「あっ、そうそう。そのドクダミなんちゃらよ」
何気なく口にするむつみに、真由ピーの表情が固まった。
あいちゃんが目ざとく気づき、訊く。
「どうしたの、真由ピー。
なんかあるの?」
瞬きすら忘れたかのように、真由ピーがあいちゃんを向く。
そして、コクリとうなずいた。
むつみは我関せずと、三切れ目のトンカツからドバドバと備え付けのウスターソースをかける。
トンカツソースじゃ、トンカツ本来の味が変わっちゃうのよね。
やっぱりウスターソース!
酸味と旨味が、トンカツを至高のオカズへと昇華させてくれるんだから。
「土管味ヶ丘にある『禍桜の森』には絶対に近寄るなって、昔から言われてるのよぅ」
語尾を震わせながら、真由ピーは自分の両肩を抱くのであった。
~☆~☆~
「ほほう、雑木林ってよりも、密林だなここは」
カタナギんちゃん号を停めて、刀木と則蔵は目的の場所を見渡す。
町の喧噪が嘘のように静寂が包む森。
結局砂糖にぎりは、五個きっちりと胃の腑へ収めた。
三個目あたりから、意外に美味おいしく感じる刀木であった。
刀木は腰に手を当て、則蔵を振り返った。
「いただいた資料によると、その家ってえのは、この森の奥にあるんだよなあ、ノリゾー」
「あ、ああ、えーっと。
うん、ここで間違いないようだなあ」
則蔵は弁道からもらったファイルを開いて確認している。
つづく
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