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 父が毎日のように鳴らす鐘の音が途絶えて、三日三晩が過ぎた。以前、どうして鐘を鳴らすのかと訊ねたら、楽浪(さざなみ)は今日も元気ですよ、何の心配もいらないよとおっかさんに教えているのだと父は言った。それなら、鐘が鳴った日を最後に、母の中で楽浪は死んだことになっているのだろうか。  漁に出たまま戻らない父の帰りを待って、うっそりと空があからむまで起きていた楽浪は、腫れぼったい瞼を擦った。最近、何もすることがないと、母のことを考えてしまう。それもこれも、父の妹である浜風(はまかぜ)が養生のためにうちに転がり込んできてからだ。  楽浪という名は、母親がわりだった浜風がつけてくれた。この子が笑う日も涙する日も、母なる湖のさざ波の音が寄り添ってくれますように、との願いが込められている。あのころ、浜風の腕の中、膝の上は、楽浪だけのものだった。  浜風が身ごもったという知らせは、突然にやってきた。額髪(ひたいがみ)を汗ではりつけ、日に日にやつれていく浜風は見ていられず、明るく豪快に笑う浜風が恋しかった。極めつけは、甲斐甲斐しく世話を焼く楽浪に、浜風がなにげなく放った一言だ。 「あたしが仕込んだんだもの、あんたには安心してこの子を任せられる」  楽浪はこの子のお姉ちゃんにはなれない、と告げられた気がした。膨らんだ腹を優しい手つきで撫でる浜風はもう母親の顔をしていた。  夜通し灯しつづけた火を吹き消して、楽浪は仮眠をとろうと身を横たえた。はだけた衿の隙間から、緒に貫かれた玉がこぼれて石の寝床に転がった。  肌身離さず首から下げたその玉は、石よりもまろやかな手触りをしている。楽浪はこれを舐めて育ったらしいが、ほんとうに母の目玉なのか、そのへんで拾った石ころをそうだと偽っているのか、はなはだ疑わしい。いっそ、偽物だったらよかったのに。  どうして楽浪は、浜風の子どもじゃなかったのだろう。母の形見の玉は、いやおうなしに、楽浪の生まれを突きつける。見ないように、衿の下にしまいこんで、楽浪は瞼をくっつけた。  父は帰らない。楽浪を甘やかす浜風はもういない。母の形見だけが、楽浪をがんじがらめに搦めとろうとする。  見えない水の中で息を殺して、楽浪はもうずっと探している。息ができる場所を。  楽浪の生まれ育った村は、良くも悪くも閉ざされている。母なる湖と霊験あらたかな山に挟まれた土地柄もあいまって信仰が厚く、父も特に隠し立てしなかったので、楽浪は湖の主さまの血を引く娘として、ときにかしずかれ、ときに畏れられて育った。楽浪自身は、無力なただの村娘なのに、村人たちがそうであることを許さなかった。  ろくに眠れなかった楽浪だが、洗濯物をたずさえ川を訪れると、楽浪と年の近い村娘たちが洗濯物をほっぽって川原でくっちゃべっていた。 「じゃあチエちゃんとこのおとっつぁんも帰らないのね」 「このごろ地揺れも多いし、やっぱり湖の主さまがお怒りなんだわ……」 「首長さまも、さっさと楽浪を主さまに差し出せばいいのに」  こういう言葉は、なぜかよく聞こえる。しぜんと足が止まり、楽浪は遠巻きに輪の中の顔ぶれを眺めた。そのうちのひとりと目が合い、さすがに気まずそうな顔をする。楽浪はとっさに踵を返し、山手へと続く森の中の道を走った。
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