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弐
咳き込んで、楽浪は目が覚めた。喉はまだひりひりと痛むが、呼吸はできる。楽浪は生きていることを噛み締め、目のふちに溜まった水を手の甲で拭った。
きつく締めた腰ひもの感覚がなく、やけにすうすうすると思えば、楽浪は身ぐるみ剥がされ一糸まとわぬ姿をさらしていた。暗がりに目が馴れてくると、むき出しの岩肌からここが天然の洞穴だとわかってくる。陽の差しこむ入口はまぶしく、注連縄がかけられていることだけがぼんやりとわかった。
注連縄の下をくぐると、洞穴の外に広がるのは湖ばかり。湖面のかなたには、山々の稜線が霞んでみえる。洞穴の入口のほかに通じるわき道が見当たらないのを確認して、楽浪は途方に暮れた。
洞穴を避けてよじ登れないものかと岩壁を見上げると、生い茂る木々の緑に映えて、洗濯物が風になびいている。
その洗濯物の中でもひときわ鮮やかな赤いひもが、目の端で翻った。
「わたしのひも!」
思わず叫ぶと、上で草木をかき分ける音がした。楽浪の声に気づいただれかが、崖下を覗きこむ。顔を見るに、まだ子どもだ。年のころは十くらいだろうか。くりくりと愛らしい目。髪を団子にまとめ、ふっくらとした頬があどけない印象を与える。
「あんた、目ぇ覚ましたのね。今迎えに行くから、待ってて」
少女は岩壁の向こうに引っ込むと、しばらくして、丸太を縦に割ってくり抜いただけの簡素な船に乗り、湖の上をやって来た。
「あんたの着物、ずぶ濡れだったから、今干してるの。代わりにこれ」
船を降りてきた自分より年下の子どもに着る物まで差し出され、楽浪は急に恥ずかしくなった。
「あの赤いひも、あんたの? いいなあ」
そう羨ましがる少女は、楽浪の着物より上等そうな衣に身を包んではいるものの、全身真っ白で、お洒落のしがいもなさそうだった。
楽浪は素早く衣に袖を通してから、頭を下げた。
「何から何までありがとう。わたしは楽浪。あなたの名前は?」
「あたしは小夜。おっかさんの《目》となって、この島で暮らしてるの」
小夜は奇妙な返事をした。疑問をさし挟む隙を与えず、小夜は楽浪の手を引いた。
「遠回りだけど、この島の船着き場は南にあるの。ここからじゃあ崖を登るしか島に上がれないから、とりあえず乗って」
促されるままに、楽浪は今しがた小夜が乗ってきた船に押し込まれた。小夜が船を漕ぎ出し、切り立った岩壁にぽっかりと口を開けた洞穴が、少しずつ遠ざかる。紙垂が風にはためくのを、身を乗り出して眺めた。
「わたし、助かったのね」
「そうよ。溺れていたのを、おっかさんが運んできたの」
櫂で水を掻きながら、小夜はまるで自分のことのように得意げに、胸をそらした。
「そうだ、拾い物なんだけど、もしかしてこれもあんたの?」
懐をまさぐって、小夜は緒に貫かれた玉の首飾りを楽浪の目線にぶら下げる。
楽浪は返事に詰まった。この場所はたぶん、楽浪につきまとう謂れをだれも知らない。楽浪が否定すれば、湖の主さまを母に持つ楽浪は、存在しないことになる。
「ううん、知らない」
小夜はそっか、とうなずいて懐にしまった。膝の上できつく握ったこぶしの力を緩めると、手のひらには爪が食い込んだ痕が残った。
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