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 ここがどこかわかったところで帰るあてもない。楽浪が今日は家に帰らないことを告げると、小夜は飛び上がって喜んだ。  日も暮れて、洞穴に戻った二人は火に炙った魚を()み、寝る支度にかかった。 「ほんとにもらっていいの?」  赤いひもを抱きしめて寝床になだれこむ小夜に、何度目のやりとりだろうと楽浪は呆れた。しかし、今日一番のゆるんだ笑みを浮かべる小夜は、とても可愛い。  火を消して、背中越しにおやすみを言い合ったが、楽浪は寝つかれず、小夜のほうへ寝返りを打った。 「ねえ、小夜はどんな子どもだった?」  小夜も身体の向きを変えた。黒目がちの瞳が、楽浪の目線と同じところにあるのは、新鮮な感じがした。 「どうしてそんなことを訊くの」  楽浪は言葉を探した。どう言えば、うまく伝わるのだろう。でも、形にしようとしなければ、伝わるものも伝えられないのだ。 「……わたしは小夜を、写し鏡みたいに思ってる。あるいはそう、湖面に映った自分の影。小夜といるのは居心地がいい。だから、小夜のことを知りたいと思ったの」  稲妻が走り、暗い洞穴に光が差す。小夜の瞳が揺れるのが、はっきりと見てとれた。  遅れて、地を這う雷鳴が轟く。 「忘れちゃった。……そんな昔のことなんて」 「じゃあ、もし今の小夜があるのはわたしのせいだって言ったら?」  楽浪が自分の生い立ちを洗いざらい喋ると、小夜は母の目玉の首飾りを、うやうやしい手つきで、懐から取り出す。 「やっぱり、あんたのだったんだね」  人肌の温もりを宿した玉を両手で受け取って、楽浪は自分の鼻先をくっつける。 「うん……ごめん。やっぱり返して」  空っぽの楽浪になってみて、初めてわかった。これは簡単に手放しちゃいけないものだった。ただの村娘になることと、母のことを含めて自分を丸ごと受け止めることは、同じではないのだ。 「やっとわかった。わたしがこの島に流れ着いた意味。これをおっかさんに返すの。わたしはけじめをつける。そして小夜――あなたを縛るものから、解き放ってあげたいの」  小夜の瞳から、ひとしずくの涙が肌をすべった。その顔は泣き笑いに見えた。 「……気持ちは嬉しいよ。でも、ちがうの。あたしはあたしの都合で《目》になることにした。湖の底で会ったおっかさんは、とても寂しそうで、かわいそうな人だった。だからあたし、そばにいてやりたいと思ったの」  小夜の声に被さるように、激しい揺れが足元から突き上げた。岩肌を崩れ落ちる石のかけらが雨のごとく降りかかる。地揺れがおさまるのを待って身を硬くする楽浪と対照的に、小夜は跳ね起きた。 「おっかさんが呼んでる。行かなくちゃ」  その目はもう、楽浪を映してはいない。 「待って、小夜」  赤いひもを抱きしめて外に飛び出そうとする小夜を追いかける。注連縄の下で立ち止まった小夜がすっと右手を伸ばした。指先が向こう岸に見える山のふもとを示している。 「見える? あそこが――あたしの生まれ育った村」  小夜は最後にそれだけ打ち明けた。懐かれたように見えて、硬く閉ざされていた小夜の心の殻。楽浪の言葉は、それにひびを入れることはできたのかもしれない。でも中を開いて柔らかいところを見せる前に、小夜は地面を蹴って湖に沈んだ。  後を追ってすぐさま飛び込んだ湖は、楽浪が知っている湖とは別の表情をしていた。底が見えない。どこまでも堕ちていきそう。楽浪は必死で水を掻いた。  小夜の細くしなやかな手足に赤いひもが絡まる。白い衣を脱ぎ捨てた小夜は、一匹の龍に姿形を変え、渦を巻く湖の底へと吸い込まれていく。  奔流が楽浪の身体を攫い、水面へと押し上げようとする。湖の底はどんどん遠のいて、もう手が届かない。おっかさんには小夜がいて、小夜にはおっかさんがいた。入り込む隙などないのだ。  無念だった。楽浪は今も昔も無力な、ただの村娘だ。幼い小夜さえ助けてやることもできない。  楽浪は首飾りの緒を噛みちぎり、震える手で母の目玉を湖に還した。せめてこれだけは、返さなければならなかった。玉は水底に澱む闇にかき消え、すぐに見えなくなった。
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