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 名前を呼ばれた気がして目を開けると、全身をしとどに濡らした父が覗きこんでいた。そぼ降る雨が、父が外にいた時間の長さを物語る。 「おとっつぁん、いつのまに帰ったの」 「ばかやろう。楽浪が帰らないって、浜風のやつ取り乱していたぞ。今が大事なときだっていうのに」  自分のことを棚に上げ、父は楽浪を叱った。 「……浜風姉さん、心配してた?」 「そりゃあもう」  父が大げさにうなずいてみせるので、楽浪は泣きたくなった。でも、どうしてこんなに泣きたい気持ちに襲われるのか。 「で、おまえはどうして、こんなところにいるんだ」  楽浪は水を吸って張りつく着物の重みを感じながら、起き上がった。あたりを見渡せば、ここは若かりし日の父が蛇を助けた浜だ。父と母が出逢った場所。  川へ洗濯に向かったことまでは憶えていた。しかし、そのあとのことは靄が立ち込めたようにわからない。ふと、片手に握りしめていたものを見やって、楽浪は雷に打たれたようにすべてを思い出した。  あの子があんなに羨ましがった、赤いひも。くれてやったつもりだった。でも、あの子は気遣い屋で、優しい子だから。とうとうこらえきれず、滂沱(ぼうだ)として涙があふれた。  ぎょっとして目を剥く父に、楽浪はしゃくりあげつつ、声を絞り出した。 「おっかさんに、玉を返しに行ったの」  母の名を出すと、父は表情を改め、そうかとだけつぶやいた。 「おっかさん、ひとりきりじゃなかったよ」 「……そうか」  父は少しためらうそぶりを見せたが、腹を決めたようだ。渚のような父の声が聞こえる。 「漁に出ていると、不思議な経験をすることがあるよ。今回も……船の上で、何度ももうだめかと思ったけれど、なんとか帰ってこれた。これ以上は、おれの口からは言えない。そもそも簡単に言い表せるものでもないしな。でもたぶん、おっかさんは今でも、おれたちを見守ってくれているよ」  楽浪の髪をかき撫でる父の手は、毎日漁に出るせいで日に焼けて浅黒い。岩場を思わせるごつごつとした感触に、ひどく安心する。やっぱり楽浪の居場所は、父のあったかい手の中にあった。楽浪を思って心配してくれる浜風の隣にあった。  おっかさんに居場所を見出したあの子のことを考える。父の言うとおりなら、おっかさんの《目》となったあの子が、つねに楽浪たちを見守っていてくれる。 「おとっつぁん、わたし、行きたい場所があるの」  島との位置関係、あの子が指差した方角から、あの子が住んでいた村は見当がつくだろう。あの子を知る人が生きているかもわからないけれど、いつか訪ねていって、あの子の話を聞きたい。ようやく楽浪に、叶えたい望みができた。  湖の底にはお城があるとあの子は言った。そこでの暮らしに不便はしていないだろうか。食べ物を盛る器やお椀、ちょっとした遊び道具。楽浪が見繕ってもいいけれど、やっぱりあの子が生まれ育った村の土でつくったものがいい。おめかししたい年ごろに、あの真っ白な着物はかわいそうだから、華やかな着物をたんと用意して。この赤いひもと一緒に、湖の底に沈めてあげよう。それが少しでも、あの子の供養になるのなら。  もうひとりのわたし、可愛い小夜。おっかさんのそばにいてくれて、ありがとう。どうか安らかに眠れ。                   Fin.
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