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湖をのぞむ小さな村に、ひとりの若者が漁で身を立てて暮らしておりました。ある日の帰り道、浜辺で子どもたちにいじめられている一匹の蛇を見かけた若者は、かわいそうに思い、蛇を逃がしてやりました。
その夜のこと、若者の家をうつくしい娘が訪ねてきます。道に迷ったと言って一夜の宿を乞う娘に、若者はひと目で恋に落ちました。ふたりは目出たく結ばれ、妻となった娘は身ごもると、いよいよ産屋にこもることになりました。
――けっして中を覗いてはいけません。
妻は産屋にこもる前、そう若者に言い含めましたが、産み月を越えても、妻はいっこうに産屋から出てきません。若者は眠れぬ日々を過ごし、矢も盾もたまらず、とうとう産屋に乗り込みます。
中を覗き込み、そこで見た光景に、若者は腰を抜かしました。人の身の丈をゆうに越す大きな蛇が、白銀の鱗におおわれた身をくねらせて、産みの苦しみにのたうち回っていたのです。
――本性を知られては、わたしは帰らなければなりません。この子が泣いたら、これを舐めさせてください。きっと泣きやみます。
妻はそう打ち明け、若者の手にひとつの玉を握らせて、赤子を託すとそのまま水に溶けるように姿を消しました。
それからというもの、近くに住む妹の手を借りながら、若者はなんとか赤子を育てておりました。赤子は乳ほしさによくぐずりましたが、玉を差し出すと夢中になってしゃぶり、そのうち眠りました。ある日、赤子が泣き出したので玉を与えようと懐を探り、若者はそこにあるはずの玉がないことに気がつきます。どうやらどこかで失くしてしまったようでした。途方に暮れた若者は、泣きやまない赤子を抱えていつか蛇を逃がしてやった浜に行き、妻の名を呼びました。
水面が生き物のように膨れあがり、ぱっくりとふたつに割れて、何かが勢いよく宙に飛び出すのが見えました――それは白い龍でした。長い長い尾をひるがえし、白銀の鱗をきらめかせて、龍は円を描くように空を泳ぎます。
――この玉はわたしの目玉。さあ、これでわたしは両目を失いました。もう何も見えません。さようなら、愛しいひと、愛しいわが子よ。せめて見守ることができたら。それだけが心残りです。
妻であった龍は、そう若者に語りかけ、波しぶきを蹴立てて湖の底へと沈んでいきました。
今見たものは夢かうつつかまぼろしか、あたりはしんと静まりかえっています。若者がなにげなく懐に手をやりますと、馴れた手触りがして、失くしたと思っていた玉が懐から出てきました。
泣いていた赤子が玉にしゃぶりつくのを見届けて、若者は家路につきながら、目が見えなくなった妻のことを思いました。
年に一度の祭祀のおり、神さまに聞こえるようにと鳴らす鐘が、村の首長さまがあずかる蔵の奥ふかく眠っています。あの鐘の音なら、湖の底にひとり寂しくいる妻の耳にも届くはず。
せめて娘の無事だけでも知らせてやりたいと、若者は思うのでした。
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