僕は哲学ゾンビだった

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「ねぇ、哲学(フィロソフィカル)ゾンビって知ってる?」  彼女が僕を挑発的に見つめたその真っ黒で大きな瞳を、僕ははっきりと思い出す事が出来る。 「人間にはクオリアと呼ばれるものがある。意識とも、魂とも言える。しかし哲学ゾンビはそれを持たない。ただ物理的化学的電気的反応として、人間のように振舞っているに過ぎないの。そういう風に仮定された存在」  包み隠さずに正直に言えば、頭の悪い僕には当時彼女の言う事の半分すら理解不能だった。ただそんな事はどうでも良くって、彼女がそんな僕に対して様々な知識を披露し、満足気に笑うその少女の様な笑顔を見るだけで、僕は十分に満たされていた。  地元である香川県から出て、東京の大学に進学したのはやはり地元に居場所が無かったからだと思う。漫然と反応と反射で繰り返される日々に、嫌気がさしていたのかもしれない。全てをリセットしたいと思っていたのかもしれない。もしかしたら意識の芽生えば、僕にとってはそこから始まったのかもしれない。そのストレスこそが、僕の意識の始まりと言えるのかもしれない。  東京に出たばかりの僕は、大学で出会った彼女と恋に落ちた。彼女は知的で、奔放で、そして移り気だった。 「ねぇ、知ってる?」 無機物的な有機物の支配する夕暮れの川辺の公園で、整備され支配され尽くした自然の真っ只中で、彼女は僕を振り返る。いつものごとく挑発的に、いつものごとく僕を見下して。 「世界は等しく素粒子で出来ている」  逆光の夕日が世界を覆い、僕の視覚野の彼女を赤に色付ける。 「物理的化学的電気的素粒子の反応こそが世界の根源。だったら私の、この私っていう存在は、一体何なんだろう?」  赤に色づいた彼女の微笑が、影の濃淡で揺らいで儚く瞬いた。まるで量子の見る夢の様に。 「私、昔の記憶が曖昧なの。記憶力がないの。どんどん消えていく。どんどん無くなっていく。今この瞬間すらも10年後には思い出す事さえできないかもしれない」  その声すらも僕の記憶は赤を想起させる。赤が記憶と彼女をシナプスの電気信号で複雑怪奇に結びつけ、1つの具体的なイメージを僕にもたらす。 「私の意識は実在するのかな。私は今、実在してるよね? でも10年後に今の私は実在しないかもしれない。消えて無くなっているのかもしれない。」  僕が覚えてる。僕はそう言った。僕が覚えている限り、彼女は実在する。僕が覚えている限り、彼女の物語は失われない。僕はそう彼女に伝えた。しかし、彼女は僕を再び笑い、 「そう言う事じゃないの。そうじゃないの。私の物語が私の中から消えていく。それだけが問題なの」  今にして思えば、彼女は不安だったのだろう。僕と同じ様に単身北海道から進学してきた彼女もまた、周囲と相対的に孤独だった。  物語が好きで、しかしものを書く事に慣れない僕は、単なる偶然で映画研究部へと入る事になった。同じくそこに所属していた彼女もまた、僕と似た人種だったと言う事だろう。  しかし僕と彼女が決定的に違っていたのは、その勤勉さだった。彼女は独学で様々な事を吸収し、僕にぶつけた。僕はぶつけられるがままにそれに反応し、反射し、必然として吸収する事となった。
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