僕は哲学ゾンビだった

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 彼女と僕は映画を撮っていた。語弊があってはいけないのできちんと説明するが、これは彼女が監督・脚本・撮影・編集・主演という名の主犯で、僕がその共犯者だ。今見ると恥ずかしさで死にそうになる、ある男女の恋の物語だ。  映画にはモンタージュと呼ばれる技法がある。モンタージュとは乱暴に説明するならば、全く違う2つの映像を並べた時に、人間の意識が勝手にそこから物語を読み取ってしまう現象の事だ。人間が驚いた顔のクローズアップの後に誕生ケーキの映像を見せられれば、プレゼントに驚いた人間の喜びの物語がそこに描き出される。そこに拳銃が描かれれば、脅迫や殺人の物語が描き出される、と言った具合だ。  物語は意識が必然として生み出す生産物に過ぎない。人間の意識はどんな出来事にも物語を想起する。面白いかつまらないかは別として、どんな文字列にも、映像の並びにも物語を紡ぎ出す。意識は物語としてしか世界を捉えることが出来ない。そう言った装置であることすら、当時の僕は理解していなかった。  そして、今まさに物語が失われていくこの現在という自らの意識の在り処を、客観的に理解する事も出来なかった。  そのデジタルの映像によって紡ぎ出された映像の物語に音はなかった。 「サイレント映画こそ、純然たる映画だわ」  彼女はそう言って映画に音を導入する事を 忌諱した。 「サイレント映画に音は無いわ。でも言葉はある。あの映像と映像の間に立ち現れる黒をバックにした白い言葉が、私はたまらなく好きなの」  そして彼女の言葉が指し示す通り、彼女はその映画から色も捨て去った。もっとも、フィルムなどという懐古的な撮影システムはとっくの昔に伝統芸能となり、今や僕たち一般人にはとてもじゃないが手を出すことが出来ない。彼女は苦渋の選択だと言いながら、デジタルの映像素材から色と音を消し去ったに過ぎない。 「映画を撮るのは、記録する為」  彼女はまるで呪文のようにそれを唱えていた。 「今、私の意識を、心を、思考を記録するの。忘れてしまわないように。そこに余計な情報はいらないわ。動作と言葉でしか人間は意識を表現出来ないもの。魂を記録出来ないもの」  彼女と僕の映画はいわば私小説のようなものだった。彼女と僕を記録した、彼女と僕だけの物語。  言うまでもなく、映画研究部内での上映による評判は史上稀に見る最悪だった。
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