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今年の秋は長雨が続き、いつまでも景色を薄暗く染めていた。何をそんなに泣くことがあるのかと見上げるが、分厚い雲はどこまでも空を覆っている。
思わず漏れかけたため息を飲み込み下界から視線を戻す。と、相も変わらずにぎやかで雑多な事務所の景色がそこにあった。
「おい、葛原なにをぼうっとしているんだ。原稿はもらってきたのか」
編集長の大原に目敏く咎められ葛原正吾は肩をすくめた。
「すみません、今から行ってきます」
「ぼんやりしている暇があるならさっさと行ってこい」
決してぼんやりしていたわけではない。この雨の中原稿は濡れてしまわないかと憂いていただけだ。仕方ない、きっちりと防水をしていくとするか。
と。
重たい腰を持ち上げかけた葛原の机の上の電話が鳴る。
「はい。小早川出版、葛原です」
繋がった通話はどこか荒々しく、音声が安定しないのかザワザワと耳障りな音を立てている。
「もしもし?」
相手の声がうまく聞こえず問い返すと「葛原くんかい」と懐かしい声がした。
思わず受話器を強く耳に当て聞き漏らすまいとすると、先方はその空気に気がついたのか小さく笑って言葉を続ける。
「やあ、葛原くん。ご無沙汰してしまって。元気かい?」
それは民族奇譚小説界の重鎮、森ノ宮匡芳の声だった。
彼から紡がれる物語は幻想と現をさまよい、読む人を懐かしくも切ない世界へと誘う。そんなに需要のあるカテゴリーではないのにコアなファンが多く、発売とともに重版がかかるほどだ。その為どの出版社も喉から手が出るほど欲しい。
世に出た数は優に100冊を超えている。だが人気は衰えることがなく、ファンに愛され飽きられることがない貴重な存在。
とはえいえ、自身はいつも飄々とし物腰も柔らかく、傲慢さのかけらもない。こうやって一編集である葛原にさえ、親しげに声をかけてくれるほどだ。
「先生。こちらこそご無沙汰してしまいまして」
受話器越しに頭を下げるとクスクスとおかしそうな笑い声が届いた。
「まあ、お互いに忙しいからな。前置きはこのくらいにして、今日は君にお願いがあって電話をしたんだよ」
「お願い、ですか」
「そう。君ならきっと興味があると思ってね」
なにか面白いいたずらをみつけた子供のような声色に葛原も笑いを含んだ声で返す。
「ぜひお伺いしたいですね」
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