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008:忘れかけた記憶
「司~! ちょっと下りてきて~」
「なに~?」
階下にいるらしい母親の声に荷造りの手を止める。まだまだ引越は先だけれど、まずはシーズンを終えてしまった衣類などから箱詰めをとコツコツ作業を始めていたのだ。
適当に詰めようとしていたダウンコートをベッドの上に放り出して部屋を出る。
「何、どうしたの?」
「今から晩ご飯の準備をしようと思って」
「うん……?」
「司も手伝ってちょうだい」
「へ? ……まぁいいけど。どうしたの?」
「だって、男の子が二人暮らしでしょう? お母さん、あなた達の食生活がとっっっても心配!」
握り拳を作ってまで力説する母親の、八の字眉の心配顔に思わず笑ってしまった。
「大丈夫だってば。オレも颯真も、ちゃんとご飯作れるよ?」
「そうかもしれないけど。あなた達まだレシピ見ながら作ってるんでしょう? レシピ通りに作るのも、仕事で疲れて帰ってくると嫌になったりするじゃない。そうやってどんどん食生活が怠惰になっていくのよ! お母さんだってそうだったもの。新人の頃は」
「……へぇ。お母さんのそういう話、あんまり聞いたことなかったね」
「あら、そうだった? ……まぁ、お母さんはお父さんと結婚するタイミングで仕事辞めちゃったから」
「お父さんに何か言われたの? 仕事辞めて欲しいとか?」
「お父さんは何も。続けたかったら続けていいって言われたんだけど。お母さん、自分がそんなに器用じゃないって分かってたから、家事して仕事しては無理だろうなって。……家庭に慣れたら、パートか何かしようと思ってたんだけど、すぐに結を妊娠して、それっきり」
はいこれ、と手渡されたのはデニム地の初めて見るエプロンだ。
「どしたの、これ?」
「買ったの! 颯真くんのもあるわよ! お揃いにしておいたから!」
「ちょっ!? お揃いのエプロンって……!?」
いいからいいから、と楽しそうに笑う母親に背中を押されてまな板の前に立たされる。
「司のお料理食べるのなんて、小学生以来ね」
「……あぁ、そう言えば家庭科の宿題で一回だけ晩ご飯作ったね。……よく覚えてるね、そんなの」
「当たり前じゃない。献立も覚えてるわよ……生焼けのお魚と、火の通ってないジャガイモのお味噌汁。……ふふふ。司ったらあの時、結にからかわれて泣きそうな顔してたわよね」
「泣いてないよ。……それに、あれは姉ちゃんが悪いよ。オレが一生懸命作ったのにマズーイとか言ってさ」
そうだったわね、と懐かしそうに笑う母親の目が少し潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
「さっ、じゃあ今日は失敗しないで焼いてちょうだいね。みんなの晩ご飯がかかってるわよ」
「……魚焼くのはあんまり自信ないな……そう言えば魚は焼いたことないし……」
「あらっ、じゃあリベンジね。それから、お味噌汁に大根と油揚げ。大根は半分はおろしてお魚に添えるから、そのつもりで切ってね。それから、副菜は小松菜と油揚げの煮浸し」
「煮浸し……」
「お野菜もちゃんと摂らないとダメよ。バランスが大事なの。お肉ばっかりじゃダメよ」
はい、まずは手を洗って、とテキパキ指示を出されて言われるがままに調理を始める。
自分では慣れていたつもりなのに、主婦歴ウン年の母親からはまだまだ危なっかしく見えるらしい包丁さばきに少しだけアドバイスを受けながら、ふと思いついて聞いてみる。
「……姉ちゃんとも、こういうのした?」
「してないわ」
「え、そうなの?」
「結がお料理出来るのは知ってるもの。……お父さんがね、酷かったの。食生活」
「……お父さんが?」
「そう。結婚する前ね。付き合ってる時。お父さんも一人暮らししてたんだけど、もう……ひっどかったの」
「そんなに?」
「晩ご飯がお惣菜なのは当たり前だったし、朝ご飯は食べないのがしょっちゅうでね。お昼も毎日牛丼とか天丼だとか親子丼だとか……そんなことばっかりで、もう心配で心配で。私も仕事があるからあんまり凝ったものは作れなかったんだけど、それでも頑張ってお弁当作って手渡してた」
昔を思い出しているせいか、一人称が「お母さん」ではなくなっていることに気付いて、ほんの少し微笑ましささえ感じてしまう。
「へ~。凄いね、お弁当作るの大変そう」
「大変だったわよぅ。でも、毎日嬉しそうに空っぽのお弁当箱手渡してもらえると、明日も頑張って作ろうって思えたのよねぇ」
「そっか……。オレもね、作り置きとかしてるよ。颯真の冷蔵庫に。日持ちするおかず作って、タッパーに入れてる」
「あら、そうなの? それなら少しは安心。……でもまだまだ、包丁持つ手が危なっかしいわね……」
「そうかなぁ? 前よりはだいぶ切るのも早くなったし、大きさも揃うようになってきたと思うんだけど……」
「左手は猫の手よ、そんなんじゃ指が何本あっても足りないわ」
「猫の手滑るんだもん」
「滑らない。はい、猫の手してごらん」
ビシビシ行くわよ、と華やかに笑った母親に指導されながらの夕食作りの時間は、和やかに過ぎていった。
*****
「司、ごめん待たせたわね」
「ううん、全然。姉ちゃんこそ、ごめんね仕事終わりに」
「大丈夫よ」
にこりと笑った姉がごそごそと鞄を探って白い封筒を手渡してくれる。姉の勤める保険会社がスポンサーになっている舞台のチケットを、2枚取ってくれるよう頼んだのだ。
「はい、これ。……でも、どうしたの? あんたお芝居なんて興味あったっけ?」
「ありがとね。……オレじゃなくて、お母さんに。この舞台、お母さんの好きな俳優さんが出てるでしょ」
「あぁ、そう言えばそうね。何、親孝行する気になったの?」
「ん。まぁ……母の日も近いしね」
「なるほどね。あ、だったらあたしも乗っかるわ。チケット代、半分出してあげる」
「え、でも……」
「いいわよ。あたしも母の日」
ね、と笑った姉に甘えて、予定の金額の半分を手渡す。
「姉ちゃんは、母の日、家に帰ってくる?」
「んー。どうかな。まだ決めてないんだけど、向こうのお義母さんにも何かしたいと思ってるし……」
「そっか。……母の日、オレが家事全部やろうと思ってるんだ。昼間お父さんと一緒に舞台見てもらってる間に、掃除とか洗濯とかして。晩ご飯作っておこうって。お父さんにも協力してって言ってある」
「そう、いいじゃない。……あ、じゃあやっぱあたしも帰ろっかなぁ。あんたの晩ご飯、失敗したやつしか食べたことないしね」
「今は失敗しませんー」
「お、言ったわね。……じゃあ……二人で帰るから。五人分よ、大丈夫?」
「姉ちゃん……」
二人で、と言った姉を見つめたら、申し訳なさと後ろめたさが掠めた目を細めた後で、つんと顎を上げて優しく笑った。
「あたしは忖度しないわよ」
「……任せといてよ」
「じゃ、母の日にね」
ヒラヒラと手を振って駅へ戻る姉に手を振り返す。
「……五人分……何にしようかな……」
嬉しくも大変なことになってしまった母の日に向けて、夕食のメニューを思い浮かべながら家へと急いだ。
*****
「ねぇ、颯真」
「んー?」
「今度の日曜日さ、オレ、ちょっとこっち来られないんだ」
「ありゃ、そうなの。……なんかあった?」
残念そうにしながらも、もう少しで一緒に暮らせることも手伝ってか、あっさりと受け入れてくれるらしい颯真がのんびりと訊ねてくる。
「ん。母の日でしょ。実家にいる最後の母の日だし」
「あぁ、そっか。母の日か……」
「颯真は? なんかしないの?」
「え~? ……昔はそりゃ、なんか色々やってたけど、なんかだんだんやらなくなったなぁ……」
「オレもそう。……でも、最後くらいちゃんとしようかなって。……こないだね、言われたんだ。あなた達の食生活がとっっっても心配! って。だから、全然大丈夫だぞってとこ、見せようと思って」
「ご飯とか作るの?」
「うん。……姉ちゃんもさ。旦那さん連れて帰ってくるって言ってて……」
「えっ、お姉さんも? 良かったね!」
一時期のゴタゴタを知っている颯真が、自分のことのように嬉しそうに笑ってくれる。
うん、と頷いて見せながらも、それでさ、と相談を持ちかける。
「五人分もさ、何作ればいいと思う?」
「……五人分……」
「いつもさ、颯真と二人だからさ。野菜炒めだとか、焼きそばとかさ。そう言うのばっかりでしょ。五人分も作るの初めてだし、どうしようかなって……」
「う~ん。難しいね……オレもそんなに作ったことないし………………あ!」
「ん?」
「稔だ!」
前に一度だけ会ったことのある顔を思い出しながら首を傾げていれば、
「前に会ったでしょ。稔と渉」
「うん、覚えてるよ、ちゃんと。……それに、渉は今もちょくちょく連絡くれるよ」
「えぇ!? いつの間に連絡先交換したの!?」
「え? 前会った時だけど……あ、颯真お風呂でいなかったかも」
「なんか変な話聞いてない? 渉は話盛る癖あるから、話半分……いや、5分の1くらいで聞いて!」
「……分かった。……で、あと颯真と、もう一人?」
「そうそう。今藤って言うんだけど。だいたいこの4人で集まること多くてね。集まった時に稔がしょっちゅういろんな物作ってくれてたなって。聞いてみよっか」
お願い、と頼んであの日の賑やかな餃子パーティーを思い出す。
「楽しかったね、餃子パーティー」
「だね。……あ~、なんか餃子食べたくなってきたなぁ。ついでに餃子のレシピも聞いてみよう」
また適当って言われるんだろうな、と苦笑した颯真をキョトンと見つめていたら、なんでもないよ、と笑い返される。
「……オレも、花でも買って帰ろうかな……いや。母さんだったら花より団子かなぁ……」
*****
ピンポンとインターホンが鳴って、せっせとテーブルセッティングしていた手を止める。姉とその夫になる人の到着だろう。
パタパタと走っていって玄関を開ければ、やはり姉と、前撮り写真で見たその人が立っていた。
「あ……。初めまして、弟の司です」
「こちらこそ初めまして。小日向一弥です」
ペコペコと頭を下げあっている横を姉は面白そうに通り過ぎてリビングに入っていってしまう。
あがってください、とスリッパを勧めて先にリビングに入ってしまった姉を追いかけた。
「姉ちゃん鍵持ってないの?」
「持ってるわよ。いきなり入ってご対面よりお互い心の準備が出来て良かったでしょ」
「それは……そうだけど……」
後からリビングに入ってきた一弥の方もやれやれ、という顔で笑っている。
「お茶でいいですか?」
「いや、おかまいなく」
「あたし紅茶がいいな」
「姉ちゃんは自分で煎れなよ、自分の家なんだからさぁ」
「可愛~い弟が一生懸命入れてくれた紅茶が飲みたいの」
「……ほんっと調子いいんだから」
「何よ、カフェでバイトしてたんだから、紅茶くらいお手のものでしょ。一弥はコーヒーにする?」
「あの……家、豆ないからコーヒーはインスタントになっちゃうんですけど……」
「いやもうほんとに。……結も、弟さんからかってないで。料理、手伝うんだろ」
「……」
「5人分を1人で作るのは大変だろうからって、言ってたの結じゃん」
「姉ちゃん……」
なんだかんだで優しい姉に思わずじんと来てしまう。
素直になれないらしい姉がふいっと視線を外したままでポツリと聞いてくれる。
「――何作るのよ」
「大丈夫、ほとんど出来てる。今テーブルの準備してたんだ。手伝ってよ」
「……仕方ないわね」
5人分なら大皿料理がいいのではと稔が助言してくれて、メニューはちらし寿司と、白菜とりんごのサラダ、ブロッコリーとツナをマヨネーズで和えた副菜に、鶏団子のスープにした。デザートは姉に何か見繕ってきてくれと頼んでおいたら、イチゴのたっぷり載った華やかなムースを買ってきてくれたようだ。
あとは両親の帰りを待つだけと、姉に紅茶を入れてやってソファに腰を下ろしたところで鍵の開く音が聞こえてきた。姉がパタパタと玄関に迎えに行く後を追って、一弥さんも玄関へ急ぐ。
「ただいま~。……あら、結、来てたの?」
「おかえりなさい、お母さん」
「お邪魔してます」
「あらっ、一弥くんまで! 来るなら言ってくれたらいいのに」
華やいだ声と顔のままリビングに戻ってきた母親に、おかえり、と声をかけてダイニングに誘う。
「……すごい……なぁに、これ……」
「司が作ったのよ。手伝おうと思ってたのに、あたし結局テーブルに並べただけで終わっちゃった」
「司が? これを?」
「うん。……料理が得意な友達がいて。相談したら、レシピ教えてくれたんだ。初めて作ったから、味は分かんないけど……」
「すごい! やだ、お母さんより上手なんじゃない!?」
「そんなことないよ。……とにかく、座って」
「そうね……あ、その前に手、洗ってくるわね。お父さんも行きましょ」
きゃっきゃと楽しそうに笑う母親の表情に、まずはホッと安堵の息を漏らした。
料理はどれも上出来だったと言っていいと思う。忖度しないと言っていた姉でさえ、「やだ、美味しい」と悔しそうに笑っていた。
両親も盛んに美味しいと褒めてくれ、一弥さんも何度もちらし寿司のおかわりを自分の皿によそっていた。
(良かったなぁ……)
大変だったけどやってよかったなと、部屋で1人満足していると、コンコンと控えめなノックが響く。
「司、ちょっといい?」
「いいよ、どうしたの?」
ドアを開けてやれば、風呂上がりらしい母親がにこりと笑って立っていた。
「今日はありがとう。ほんっとに美味しかったわ」
「ん。さっきも聞いたよ」
「……お母さんが、この間心配してるって言ったからよね」
「……うん、まぁ……それもあるけど」
「……心配よ。ずっと。これから先いつまでだって。……だって、親なんだもの。心配するに決まってるわ」
前よりも優しい八の字眉をしながらほんの少し背伸びをした母親が、わしゃっと頭を撫でてくれる。
「だけど、信じてる。司は、本当に強い子だから」
「お母さん……」
「……大変なことは、これからもきっとたくさんあると思う。……だけど、忘れないで。お母さんもお父さんも、……お姉ちゃんも、一弥くんだって。あなた達のことを大切に想ってるってこと」
「……うん」
「……今日は本当にありがとう。忘れられない母の日になったわ」
今度、ちらし寿司のレシピ教えてちょうだいね。
にっこりと笑って寝室へ戻っていく母親の姿を見えなくなるまで見送って自室に戻る。
ほんの少しだけ震える指先で、スマホを触って颯真にメッセージを送った。
*****
「もしもし、司?」
『……ん』
「どした?」
すん、と小さく鼻をすすったらしい音に気付いて聞けば、うん、と呟いたきり黙り込む司にオロオロするしかない。
「どしたの? 母の日、上手くいかなかった?」
確か稔から聞いて、ちらし寿司やら何やら色々作ると張り切っていたはずだ。お姉さんとその旦那さんも来るからと少し緊張していたようだけれど、何かあったのだろうかと身構えてしまう。
『ううん。みんな美味しいって言ってくれたよ。稔にもお礼言わなきゃ』
「そっか、なら良かった。……だったら、どうしたの?」
『……なんかちょっと、……凄く…………幸せだなって。恵まれてるなって、思って……』
「……そっか。……オレもね、司が母の日って張り切ってるのにつられて、ケーキ買って実家帰ってきたんだ」
『そうだったんだ。……どうだった?』
「うん。……明日は台風だねって、陽と母さん2人に散々からかわれたけどね。嬉しそうだったよ。……そんでね。来年は2人で帰っておいでってさ」
『……っ、……ん。そうだね』
今度こそ言葉を詰まらせた司が掠れた声でうなずきながら、ズッと鼻を啜る。
きっと色々思い出したのだろう司が静かに泣くのに寄り添いながら、そっと囁く。
「司……」
『う、ん……?』
「……ずっとさ、……誰にも分かってもらえなくていいやとか思ってたけど。……ちゃんと受け入れてもらった今の方がずっと幸せだなって分かったからさ。……これからも、一緒に頑張ろうね」
『……うん』
一緒に、と涙に濡れたままの声が、それでも力強く頷いてくれた。
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