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093:ティータイム
「あら、あなた……」
「? ──っ」
「やっぱり。藤澤司くん、でしょう?」
「っ、あのっ……ごめっ、んな……っ、ぁ、ちが、……すみません」
「あら。どうして謝るの」
ふふふ、と優しく微笑んでくれたその人が、オレの手元に気づいて強く瞼を閉じた。
何かを堪えるようなその姿に、心臓が縮こまる。
「すみません、勝手なこと……」
「いいの。……いいのよ。どうして謝ったりするの? ……ずっと気になってたの。いつの頃からか、月命日に必ず。可愛らしいお花と……あの子が好きだったその炭酸飲料がここに供えてあるのが。……あなただったのね」
「……すみません」
「謝らないで。本当に…………本当にありがとう」
「……」
深々と頭を下げられて、言葉も出せずにオロオロしていたら、気配を察して頭を上げたその人の少し潤んだ目がオレを捉えて笑う。
「私ね。息子と……あの子の弟にあたる子と、夫の前ではもうちゃんと区切りをつけたような顔をして……月命日にここに来てることは、二人には言ってないの。……ここに来るたび、私と同じようにあの子を忘れずに想ってくれる人がいるんだって、救われてたの。……だから、ありがとう」
「いえ……。全然。……オレに出来るのは、これくらい、ですから……」
手と声が勝手に震え出すのを宥めるのに必死で、不意にぱたりと落ちた涙を堪えることが出来なかった。
大きく目を見開いたその人が、なんだか困ったような呆れたような──それでいて笑っているみたいな優しい顔でそっと近づいてきて。躊躇いがちに肩を優しく撫でてくれる。
ぎこちない優しさが苦しくて、ひくひくと喉が震える。
「そんなに泣かないで。……本当に、あなたは何も悪くないのよ。あなたはこうして、ここに来てくれている。……それだけで十分私は救われていたの」
「っ……」
「──そうだ。ねぇ、家に来てくれないかしら?」
「……ぇ?」
「一度、あなたとゆっくり話をしてみたかったの」
「でも……」
「……今日が無理なら、いつか……来週でも、来月でもいいの……」
「……」
「お願い」
真っ直ぐな、縋るような目だった。逸らすことさえ出来ないような──懇願とも見える目だ。
「…………わかり、ました。……今から、でも?」
「もちろん」
次の機会にと言って、逃げるわけにはいかない強さだった。
それでも、今日より後にと約束したなら、きっと足が竦んで行けないに決まっている。
震える声で絞り出したら、ホッとしたように笑ったその人が、少し待っててね、と手に持っていた優しい色合いの花束をガードレールにそっと立てかけるのを見つめていた。
「ごめんなさいね。散らかってるんだけど、上がってちょうだい。夫は仕事だし、息子も出掛けてるから」
「……お邪魔します」
パタパタと先を行くその人の背中に投げかけながら、脱いだ靴を揃える。
誰もいないから上がってよ、と言われて何度か入ったことのある家の中は、あの頃と少しも変わっていなくて。懐かしすぎて苦しくて、早く早くと急かす章悟の声が聞こえてくるような気さえして胸が痛い。
あの頃はいつも章悟の部屋に直行だったから一度も入ったことのなかったリビングに通されて、勧められたソファにちょこんと腰掛ける。お茶を煎れてくるからとキッチンに入ってしまった忙しい後ろ姿を見送って、そわそわと落ち着かない気持ちで顔を巡らせた先
「────っ」
はにかむ笑顔でこちらを見つめる章悟の写真を見つけて、心臓が止まった。
目を逸らしたいのに逸らせなくて、浅い呼吸を繰り返すことしか出来ない。
あの日あの時あの寸前まで自分に向けられていた、笑顔。
『司』
優しい声。温かい手のひら。
オレのせいで一瞬の内に失われた全てが、そこに飾られている。
幼い頃からの写真が所狭しと並べられているその場所を呆然と見つめていることしか出来ない。
「──ごめんなさい」
自分が言ったのかと錯覚するようなタイミングで、その優しい声がオレの視線を絡め取ってくれた。
章悟が一人で写っていた、オレが一番最初に目を奪われた写真立てを、そっと裏向けてくれたその人が、申し訳なさそうな顔でティッシュ箱を差し出してくれる。
「うっかりしてたの。ごめんなさいね」
「……っ」
何かを言いたいのに言えずに、息もろくに出来ないまま、ただ首を横に振る。
オレだ。全部全部全部。全部オレが悪い。オレが全部。だから泣くな。困らせてどうする。
早く早くと焦れば焦るほど上手く息が出来なくなって、涙は止まるどころか、声さえも出せない。
オロオロと見守ってくれていたその人はやがてオレの隣に腰掛けて、冷たくなって震えていたオレの手を優しい手のひらで包み込んで、背中を柔らかく撫でてくれた。
「…………あなたのお母様にね……伝えたこと……聞いてくれたかしら」
「……母に……?」
酷い声だった。震えて、掠れて。声変わり中よりも酷いその声でも聞き取ってくれたらしいその人が、優しく頷いてくれる。
「……あの子の、お葬式に……来てくださったあなたのお母様から、あなたの様子を聞いたの。……ずっと泣いてるって……ずっと謝ってるって……ご飯もろくに食べないで、謝ってばっかりなんだって……。だから、伝えたの。……あの子は、お友達を助けられる子だったんだって……私はそのことを誇りに思ってるって。……あの子が亡くなってしまったことは、私も受け入れられないでいたけれど……だけど、お友達を大事にしていたあの子が、あなたの命を救えたことを誇りに思ってるって」
「……」
「強く生きて欲しいって、……あの日、お母様に伝えたの」
「…………覚えて、ます……」
「そう、よかった。ちゃんと伝えて下っていたのね」
「ごめん、なさい……全然、……つよく、なくて……。……章悟の写真は、あの日から一度も見てなくて……。いきなり見て、色々……思い出しちゃって……」
すみません、と重ねたら、優しい笑顔のままで首を横に振ってくれる。
「いいの。私の方こそ、本当にごめんなさいね。いきなり誘ってしまったから……びっくりしちゃうわよね」
伝えきれない何かを込めて首を横に振って、一言断ってからティッシュに手を伸ばす。
「…………あなたのことは、あの子からよく聞いてたの。……しょっちゅう聞くものだから、なんだかあなたのこと、他人とは思えなくて。……自分の息子って言っちゃうとなんだか大袈裟なんだけど、それくらい、身近に感じていたの」
「……そう、でしたか……」
力の入らない手で顔を拭うオレの横顔を、物言いたげに見つめて何かを躊躇う気配を見せていたその人が、やがて意を決したように口を開いた。
「……あなたのこと、ずっと……。あの子の、お友達だと思ってたの……」
「はい……?」
「でも……。…………あなたは、あの子の……大事な人、だったのよね……?」
ほとんど確信に近い音で紡がれて、息が止まった。
呆然と見つめた先で、真っ直ぐに見つめ返してくるその人の目はいっそ穏やかに微笑んでいて、どう反応すればいいのか困ってしまう。
「違うのよ。誤解しないで。あなたを責めたりしないし、あの子を貶めたい訳じゃないの。ただ……ずっと、気になってたの。あの子、ずっと……そう……高校に上がってすぐの頃は本当によくあなたの話をしていたの。司が、司が、って。ホントに、それ以外に話すことないのかしらって呆れるくらいに。……年頃なんだし、女の子の話題の一つや二つあってもいいのにって……。だけど、いつの頃からか、あなたの名前を出さなくなったのね。……司くんとは、もう遊んだりしないの? って聞いたら、そんなことないけどって……なんだかすごく複雑そうな表情をしたことがあって。あんまり触れちゃいけないのかしらと思って、聞かないようにしてたんだけど。……大学に受かってしばらくして、休みの日やなんかに、しょっちゅう外に出かけていくようになって……しかも、ちょっとおめかしなんかしてね。……あぁ彼女でも出来たんでしょう、なんて。ちょっと淋しく思いながら聞いてみたら……。ううん、大事な人が出来たんだ、って。そう言ったの。彼女って言えばいいのに、なんだか意味深ねなんて笑ってたんだけど。……そうじゃないのね。彼女って、言いたくなかったのね。あなたを否定することになるから。……だから、大事な人って言ったんだわ……。あの子は、お友達じゃなくて……大事な……大事な恋人を守って逝ったのね」
「……、……っ」
「──幸せに、なってちょうだいね。あの子があの子自身でそうしたかったはずなの。でも、出来ないから……あの子が出来なかった分まで、幸せに」
そっと取られた手に颯真との指輪があることに動転するオレの心をよそに、その人はオレの手を取った指先に力を込めた。その指先も微かに震えているような気がして、ただじっと伺うことしか出来ない。
「あの日のあなたを、今でも覚えてるの。……私達が何を言っても顔を上げようとしなかったあなたのこと。……自分だって辛くて哀しかったでしょうに、私達に謝り続けていた、あなたのこと。……あなたは、悪くないのよ。私があの子に代わって何度でも言うわ。あなたは、悪くない。もう、私達にも、──章悟にも、謝らなくていいの。あなたは、絶対に、悪くない。章悟だって、そう言うに決まってるのよ。……あなたなら、分かるでしょう?」
「…………──はい」
涙を拭えないまま、それでも顔を上げて、その人の目を見て頷く。優しい目は、章悟のそれとよく似ていて、切なくて苦しいけれど。
その仕草を受けて、その人が──章悟によく似た顔で笑ってくれた。
「あ~。……たくさん話したら、お腹空いちゃったわね、そう思わない? 冷めちゃったと思うけど、とっておきの紅茶をいれたのよ。クッキーは、丁度いいお茶菓子が見当たらなくて私の手作りなんだけど。お茶にしましょう? それで……あの子の話を聞かせてくれないかしら」
「ぇと…………じゃあ、章悟に怒られない程度に……?」
「ふふふっ、そうね。あの子ったら意外と照れ屋さんだったものね。思えば、幼稚園の頃にね──」
*****
「あれ? このクッキーどうしたの? すごく手作りっぽいけど……食べていいやつ?」
「ぇ? あー…………うん。食べていいやつ」
「なに、すごい間だね。食べちゃだめなら食べないよ?」
「ううん。……なんていうか……。今日ね、……章悟のお母さんに会って」
「へ!?」
「それで、色々話して……で、もらった」
「えぇー……なんかすごい展開だね……。けど、クッキーもらって帰ってくるくらいだから、別に何もなかったってことだよね?」
「うん。……なんかすごく、色々よくしてもらったっていうか……」
ふむ、と考え込む司の表情にはどこにも陰がなくて、むしろ清々しくて晴れやかだ。
ぽふん、と司の頭に手を乗せて、ぱふぱふと撫でる。
「ならよかったよ。……そんで、これめっちゃ美味しいね」
「あ、うん、でしょ。……なんかね、オレも初めて知ったんだけど、元々料理とかお菓子作りとか好きだったらしいんだけど、今はその……市民講座? っていのう? 公民館とかでさ、お料理サークルとかお菓子作りサークルの先生やってるんだって」
「へー! どうりで美味しいわけだね。今まで食べたクッキーの中でも上位に入るかも……」
「だよね、オレもその場で食べてみて美味しくってさ……絶賛してたら、レシピまで教えてもらっちゃって……今度また作ってみるよ」
「それいいね。じゃあ、オレも一緒に作ろっかな」
「へ?」
「オレだって手伝いくらい出来るよ?」
「まぁ、そりゃそうだけど……嫌だったりしない?」
「何が?」
「…………──ううん。何でもない。……じゃ、今度の休みに一緒に作ろっか」
「楽しみだな~」
──何もかもを飲み込めている訳じゃない。
章悟の月命日にいつも一人で事故現場に行っていることも、ヤキモチめいた気持ちが全くないと言ったら嘘になる。
だけど、こんな風に少しずつでも司の心が軽くなってくれるなら、なんだって受け入れたいと思っている。
過去の司を支えて励ましたのが章悟だとしても、今の司を支えているのはオレだし、励ますのも笑顔にするのも、他でもないオレだ。
小さなやっかみは、ねじ伏せて叩き潰す。
モヤモヤした気持ちなんて、複雑な気持ちになるほどに美味しいクッキーと一緒に飲み込んで消化して、司を支えるエネルギーに変えてやるのだ。
「……コーヒーでもいれよっか?」
「オレはカフェオレにしよっかな」
「ん、そうだね。……晩ご飯の前だけど、明日は休みだし、晩ご飯がちょっとくらい遅くなったって大丈夫だよね」
「いいね、そうしよ。おうちカフェデートってやつだね」
「んなっ!?」
「あ、その顔もかわいい」
「っ、もう! すぐそう言うこと言う!」
「いーじゃん、ホントのことなんだから」
プリプリ怒るのがまた可愛いんだよと、じゃれ合いながら二人でキッチンに立って、遅すぎるティータイムの準備をしながら。
今ここにある幸せを噛みしめていた。
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