小鳥は甘い香りを運ぶ

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「あれ!2人ともこんなところにいたんだ」   私たちがポツポツと話す声以外には音のしないしんとした空間に、よく通る声が響いた。ホールの入り口の方から、よっちゃんと同じファゴットパートの相沢さんが駆け寄ってくる。相沢さんは楽団の代表でもあるナイスミドルなおじさまだ。練習場の精算などを済ませて帰るところで私たちを見つけた、といったところだろう。 「この後、何人かで飲みに行くけど、ふたりも一緒にどう?」 「お、いいっすね。いつものとこですか?」 「もちろん。いつもの所だよ」  よっちゃんは目を輝かせてこちらを振り返った。私はこの、お願い、の目線に大概勝てない。それに、たまには飲んで帰るのもいいかもしれないという気もしていた。 「彩絵ちゃん、立ち上がる元気は?」 「ビールが待っていると思ったら元気出てきたかも」 「よし、そうと決まったら早速行こう」  私に元気がないことなど気にかけない様子で、相沢さんはそそくさと私たちを連れて歩き出した。基本的にここにいる多くの楽団員は無類のお酒好きだ。練習後は、行きつけの居酒屋に集まって”反省会”をするのが恒例だ。早く乾杯したくて、きっと今はそれで頭がいっぱいなのだろう。 「それでは、今日も一日楽しく演奏できたことに感謝して、乾杯!」  なぜか相沢さんを差し置いてよっちゃんが乾杯の音頭を取っている。可笑しくて、たまらずに吹き出すと、フッと肩の力が抜けた。確かにみんなと一緒に楽しく演奏できただけで、今日はいい日だったというのには十分すぎるくらいだ。心まで少し軽くなったような気がした。アルコールの作用なのかもしれない。それでもいいではないか。私たち楽団員は、いい演奏も、目も当てられないような失敗も、いつも美味しいお酒で流してしまうのだ。そしてまた真っ新な場所から、新しい音楽を探求するために歩き始める。臆病な恋心も一緒に流してしまえばいい。ごくり、とビールを飲み込む。ピリリとした苦味が心地いい。 「ねえ、あげておいて申し訳ないんだけど、私も1つチョコ食べたいな」 ふと思いたって、隣にいるよっちゃんに声を掛ける。 「もちろんどうぞ!」  広げた手のひらに、よっちゃんは2つチョコレートを置いてくれた。元々は私のものだったのだから恐縮するのも変な話なので、遠慮なく2ついただくことにする。早速1つ口の中へ。チョコレートが溶けて、ビールのシャキッとした苦味のある後味が残る口内にじんわりと甘さが広がってきた。甘さはかじかんだ心に温もりを運んでくる。うん、我ながらいいセレクトをしたな。美味しいチョコレートだ。一気に食べてしまうのは惜しいから、もう1つは取っておこう。鞄にしまっておくことにする。  一度断られてはいたけれど、よっちゃんにはお礼も兼ねて別なものも用意しようかと思っていた。でも、こんなに美味しくてしかも可愛いチョコがあるなら、本人が言う通り十分なのかもしれない。  しばらく甘い香りの余韻を楽しんだあと、再びビールを飲む。相沢さんが語り出した、ひと昔前に起こった団内の珍事件の話でテーブルに大爆笑が起こった。甘さはビールで流れていったけれど、温もりはそのまま残り続けた。
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