小鳥は甘い香りを運ぶ

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 朝から降っていた雨は、練習が終わる頃も変わらずしとしとと降り続けていた。外で待っていたらすぐ濡れてしまうだろう。バスの時間までロビーで待つことにする。バス停が近いのはありがたいけれど、肝心なバスの本数があまり充実していないのが難点だ。かといって、バスの時間に合わせて片付けもそこそこにあがるのは申し訳ない。結局毎回バスを待つことになるのだった。  今日もホールは使われていないようだったので、ロビーも空いているはずだ。地下から階段を登っていくと、案の定ホールのある一階は静かだった。窓を打つ雨音が聞こえるくらいだ。自分の足音もいつもより大きく響いて聞こえる。  ひとつだけ予想外なことがあった。目指す先のソファーに先客がいたのだ。一瞬立ち止まり、1つ深呼吸をした。向かう先にはみっきーさんがいる。膝の上にパソコンを置いて仕事をしているようだ。ここまで来て引き返す方が不自然だ、と心の中で自分に言い聞かせる。 「お疲れさまです」 「あれ、彩絵ちゃん。お疲れさま!」  こんなところに来てどうしたのだろう?という疑問が顔に出ていたので、聞かれる前に伝えておくことにする。 「バスの時間までここで待とうと思って」 みっきーさんは普段はあまり自分の意見を主張しないタイプではあるけれど、存外、思っていることが顔に出やすい。 「そうだったんだ。ここ、どうぞ」  少し端に寄ってあけてもらったスペースに腰を下ろした。突然空気が凝縮されたみたいに感じる。1秒1秒が引き延ばされているような感覚だ。それでいて自分自身は上滑りしているような。自分の手に、時間の流れを取り戻さなくては。 「あの、邪魔はしないので、これだけあげます」  何か声をかけなくては、そう考えていてふと、鞄の中の小鳥のことを思い出した。食べずにとっておいてよかった。チョコレートを差し出す。バレンタインの日によっちゃんから返してもらったチョコレートの残り1つだった。  可愛らしい小鳥がみっきーさんの手のひらに収まった。 「え、いいの?ありがとう」  一瞬、なんで急に?という顔をしたけれど、直ぐにまあいいかと思ったらしい。そう、単なる差し入れですよ、と今度は心の中で答える。  私にとっては、チョコレートよりも何よりも、ありがとう、と微笑んだみっきーさんの笑顔が甘かった。渡せたのはたった1つの小さなチョコレートだけになってしまったし、ラッピングもメッセージカードもないけれど、みっきーさんの笑顔が見られて胸が一杯になった。  この状況では内容は頭に入って来そうになかったけれど、邪魔をしないと言った通りに本を開いた。隣には作業に戻ったみっきーさんがいる。こういう、あまり気を使われていない雰囲気が心地よかった。少しずつ、みっきーさんの近くにいる時間を増やせたらいいな、なんて欲を出してみたり。いつも音楽というとてつもなく情報量の多いものを介して関わっているので、意外にもこうして黙ってそばにいるというのは新鮮で幸せなものだった。  この間とは全く違う理由でここから立ち上がれそうになかった。隣からは甘いチョコレートが香ってくる。この香りは、しばらく私の中から消えそうにはない。
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