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小鳥は甘い香りを運ぶ
公演のない日の市民ホールのロビーはひっそりと静まりかえっている。所属しているオーケストラの練習が終わって練習場から出てきたものの、バスが来るまでまだしばらく時間がある。2月に入っても寒さは厳しく、本当に春が来るのだろうか?と毎年思っているようなことを飽きもせずに考えてしまうほどだ。とても外にはいられないので、ロビーにあるソファーで座って待つことにする。地下の練習室へ降りていけば、先ほどまで一緒に合奏練習をしていた楽団の仲間がまだ残っているだろう。でも、今は1人でいるほうが気が楽だった。
鞄からそっと包みを取り出す。透明なラッピングの中には、北欧風な色使いが可愛らしい包装紙が見える。中身は小鳥の形をしたチョコレートだ。バレンタインのために用意したこの包みの中には、こっそりメッセージカードも入れてあった。ラッピングにはチョコとお揃いの小鳥のシールで封をしてある。もしも、渡せるチャンスがあったときに後悔しないようにと準備してきたものだ。普通こういうものは渡す前提で準備するものだと思うが、ほとんど渡すつもりはなかったと言っても良いかもしれない。あれこれと渡すシチュエーションを想定したけれど、現実はあっさりとしていた。チョコレートを渡すどころか、ほぼ会話を交わしてもいないのだ。まあ、元々渡すつもりはなかったのだから、予定通りでいいではないか。包みを鞄に戻す。
「それ、みっきーさんへのバレンタイン?」
「えっ!なんで、そんな!」
突然声をかけられて、慌てて顔を上げる。目があったのはよく見知った顔なのに、しどろもどろになってしまう。
「渡さなくていいの?」
声の主は、同じ楽団のメンバーである、よっちゃんこと陽太朗くんだ。上着もしっかり着込んで帰るところだったようだが、彼は隣に座った。チョコレートのことを見逃すつもりはないよ、詳しく聞かせて、というポーズである。
「渡さなくてもいいもなにも、みっきーさんもう帰っちゃったし」
いきなり図星を突かれたので、今更誤魔化しても仕方あるまい。正直に答えることにする。このチョコレートは、楽団の先輩である井泉幹(いいずみ かん)さんに宛てたものだった。
「せっかく用意したのに、勿体無いね」
からかうでもなく、ずかずかと詮索するでもなく、よっちゃんは私が話しやすい距離感をわかってくれている。
「自分でも気になったものを選んだし、食べられるならそれはそれでいいかなって思ってるよ」
「そうじゃなくてさ、このチョコに込められた彩絵ちゃんの気持ちはどうなるのさ」
「うーん、私が食べれば、循環して戻ってくるってことかな?」
「それじゃあ報われないじゃん」
「そんなに大ごとではないから大丈夫だよ」
チョコに込められた思いなんて、大層なものではない。はなから”渡す予定のないチョコレート”だったのだから。中身だって、もし渡しても重く思われないように高いものは避けて選んでいた。それでも、確かに心は重く沈んでいるのだった。よっちゃんのいうところの、報われない気持ち、の重さだったりするのだろうか。
「あのさ、みっきーさんに届かないなら、彩絵ちゃんが食べても、他の誰かが食べても一緒じゃないかな」
「チョコ食べたかった?」
「うん。そうだね」
見るからに期待している表情に、少し罪悪感を覚える。
「よっちゃんには、来週改めて用意してくるから」
よっちゃんはファゴットパートで、オーボエである私とは木管楽器の仲間だ。それに、社会人メンバーがほとんどを占めるこの市民楽団において、同じ大学3年生の同期という貴重な存在でもあった。楽器的にも、年齢的にも一番身近な存在と言っていい。
対してみっきーさんはトランペットで、木管セクションのメンバーほどには接点は多くないし、5歳年上のバリバリ働く社会人だ。身近な仲間であるよっちゃんのために用意しなかったことを、今更ながら気まずく感じた。でも、と思う。私はみっきーさんだけに用意したかったのだ。”みんなの妹分の彩絵ちゃん”として配るのではなく、私はみっきーさんだけを選んで渡したかった。そんなこだわりも、渡さなかったのだから意味は無くなってしまったけれど。
「その、みっきーさんに渡すはずだったやつがいい。彩絵ちゃんの思い、預かるよ」
「そこまでいうなら、あげるけど。思いがどうとかは、気にせず気楽に食べていいからね。あと、ちゃんと別なのも用意するよ」
「ううん。ありがとう。これだけで十分だよ」
よほどこのチョコレートが気になるのだろうか。よっちゃんにはよっちゃんでこだわりがあるらしい。いささかポイントが謎ではあるが。悪いなと思いつつ、丁寧にシールを剥がして中のメッセージカードだけ取り出した。また丁寧にシールを貼り直すと、よっちゃんに手渡す。
「ありがとね、彩絵ちゃん」
カードのことは突っ込まないでいてくれるらしい。嬉しそうにニコニコと受け取ったよっちゃんは、早速封を開けると1つ取り出して食べている。
「ん、おいしい」
「それは良かった」
あとは明日にしよう、と言いながら楽しげに包みを鞄にしまっている。よっちゃんはいつでも明るい人だけれど、今は落ち込んでいる私に気を使ってくれているのかもしれない。練習を終えて疲れているだろうに、そんな様子はひとつも見せずに付き合ってくれている。
「みっきーさんは、男の俺から見てもカッコいいもんなあ。憧れるの分かるわ」
よっちゃんの呟きはからっと明るく、建物の高い天井に吸い込まれていった。みっきーさんは端正な見た目もさることながら、爽やか好青年、という表現のとても似合う人だ。楽器が上手だし、仕事で忙しい中楽団の裏方仕事にも積極的に参加している。私にとっては大学生になってこの楽団に入団して以来、何かと気にかけて面倒を見てくれる良き先輩でもあった。だから、日頃のお礼も込めてバレンタインのチョコを渡したかった。それなのに、忙しそうにしているところを見て私なんかが声をかけてはいけない、そんなふうに思ってしまったのだ。
「うーん、ひとつ食べると勢いづいちゃうな。やっぱり、もう一個だけ食べちゃお」
甘い匂いが香ってくる。チョコレートを口に入れたよっちゃんは幸せいっぱいな表情をしている。みっきーさんも、渡したら喜んでくれただろうか。きっとそうだろう。ここ最近は特に忙しいようで、練習のある休日にも仕事の電話をしたりしていた。甘いものを食べて癒される、とか思ってくれたかもしれない。そう分かっていて、なぜ行動できなかったのだろうか。冷静になって思うに、一歩踏み出してみれば悪いことは起こらなかったはずだ。帰ろうとしているところに、一声かけるだけでよかったのだから。
そのうち、動くべきときに行動した人に先を越されてしまうのだろう。そしたらみっきーさんは今よりもっともっと遠い存在になってしまう。泣きたい感じはしなかった。だけど立ち上がる元気は無くなってしまった。腕時計を見るともうすぐバスが来る時間だ。ひとつため息をついて左手を降ろす。
「もう一本後のバスにする」
「おっけー。それまでここにいるよ」
「好きなタイミングで帰っていいんだからね」
「うん!好きなだけここにいる」
1人になりたくてここにきたけれど、よっちゃんが来てくれてよかった。次のバスが来る頃には、これ以上付き合わせられないからと、立ち上がることができるだろう。
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