オンライン不倫

1/1
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

オンライン不倫

 深夜0時を過ぎた頃、今日もいびき混じりの寝息が部屋中に響き渡っている。  ただじっと、その音に耳を澄ませること数分。夫が熟睡していることを確信してから、そうっと気配を消して布団を抜け出すと、自らの感覚だけを頼りにリビングへ向かい闇の中を突き進む。  シーリングライトに一番小さな光を灯し、1杯のジャスミンティーをカップに注げば準備は完了だ。  これでもし夫がベッドの空白に気が付いたとしても、「何やってるんだ?」と突然リビングの扉を開いたとしても、「なんだか寝付けなくて・・・・・・」とジャスミンティーを片手に語れば、疑いの余地などないに等しい。  微かな光に照らされた空間でひとり、慣れた手つきでスマートフォンの画面を操る。 『愛してる?』 『愛してるよ』 『旦那さんよりも?』 『もちろん』  変わり映えしない日常のなかの、唯一の癒しのひと時。この時間だけが一人の女に戻れる瞬間だった。  夫との結婚生活は、いつの間にか8年目を迎えていた。  長い年月をかけて、夫に対する愛情は情へと変わり、愛は消え去っていた。  無論、夫が嫌いなわけでも離婚したいわけでもない。  愛が姿を消した、ただそれだけのことだ。  夫の代わりというとまるで私が阿婆擦れのように聞こえるが、私には今、夫以外に愛している男性がいる。  それはかつて夫を心の底から愛していたのと同じように。ともするとそれ以上に。  彼の名は岩田健二。  36歳という年齢の割には随分若々しい見た目で、20代後半といっても何ら違和感はない。長過ぎず短過ぎない清潔感のある黒髪に、爽やかな笑顔が特徴的な塩顔男子だ。  横浜市にある病院に併設されている調剤薬局で薬剤師として働く彼は、その笑顔と柔らかな人柄ゆえに、おそらく患者さんにも同僚にも好かれているに違いない。  釣りとDIYが趣味で、DIYに関してはこれまでに作成した家具を見る限り、趣味の域を超えている。先週見せてくれた木目調の3段作りのオープンラックは、ダークブラウンとグリーンで統一された彼の部屋にぴたりと調和していた。  奥さんの顔と名前も例外ではなく、彼のことなら何でも知っている。  ただ唯一知らないのは、住んでいる場所だ。  いや、もしかすると本当は何一つとして私は彼のことを知ってはいないのかもしれない。  と言うのも、実は一度も彼に会ったことがない。それどころか声を聞いたことすらないのだ。  それゆえに、彼が私に告げている名前や職業が全て真実だという証拠はない。送られてくる彼自身の写真が本当に本人だという確証もない。  画面越しで笑顔を見せている彼が、実像なのか虚像なのか確かめる術を私は持ち合わせていなかった。  それでもたしかに私は彼を愛している。その気持ちには一点の曇りもない。  それにもかかわらず、なぜ彼と直接会わないのかと問われれば、そのこたえは一つだった。  直接会ってしまえばそれは完全なる不倫になってしまう、その一言につきる。  私と彼は決して、実際には顔を合わせることのない、オンライン不倫だからこそ成り立っている。  少しの刺激は欲しいがお互いに今の生活を全て捨てる勇気も、家庭を壊す度胸もない。  そんな卑怯で臆病な私たちのような人間には、オンライン不倫という曖昧な関係が似つかわしいだろう。 『愛してるよ』
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!