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「はい、いらっしゃー」
挨拶をしようとして、そこで時が止まるかと思う。
巧が、職場の上司と店に入って来ていた。
「おうたくちゃん。そこ、座れよ」
「じーさん俺、まだ未成年なんだけど」
ばつの悪そうに、仕事帰りの巧が呟くのを見ながら、俺はすぐさまおしぼりを渡しに行った。
「いらっしゃいませ」
「おう、兄ちゃん。ありがとうな。まずはバーボンくれよ。あと、何がいい、たくちゃん」
「そのたくちゃんってやめてよ。何か、あの、オレンジジュースとかで…」
「バーボン、シングルですか」
巧の言葉を無視して、俺は巧の上司、田町に訊く。
「ダブルだな」
「了解しました。そちら様はオレンジジュースですね」
他人行儀にそう言って、俺はその場を去る。
自分が着ている黒い制服が、何だか空しいような、そんな気さえする。
すぐ傍にいるのに。触れることもできないなんて。
悔しいのに、仕事中に泣くわけにもいかず俺はバーボンの瓶を掴みながら歯を食いしばった。
「どしたの、歩君。何か嫌な事言われた?」
陰でマスターが訊いてくる。いいえ、と俺は苦笑して、バーボンを店長に渡した。
マスターが氷にバーボンを注いでいくのを俺は見つめる。マスターの指はまるで魔法のように酒を注ぐ。その行為だけで美味しくなる飲み物があるなんて、俺は全く知らなかった。
「そんなに見つめられたらやりにくいよ」
マスターが笑うので、俺は恥ずかしくなって目を逸らした。慌ててオレンジジュースをフロートグラスに注ぐ。すると、マスターはあれ、と声をあげた。
「巧君じゃん。歩君、言ってくれればいいのに」
俺は首を振った。するとマスターは、俺の頭をぽんぽんと叩く。
「意地張らないで、ちょっと遊びに行っておいで。どうせすれ違いでろくに話してないんでしょ」
実は、此処を紹介してくれたのは巧なのだ。
バイク仲間の付き合いで、此処に来るようになった巧が俺に紹介したのだ。その時のマスターは奥さんと別居したばかりで、精神的に参っていた。俺が来たときは毎日泣いてばかりいたものだ。
「はい。歩君のウーロン茶もあるから」
「…ありがとうございます」
俺は渡されたお盆を持って、巧の卓に向かう。バーボンとジュース、ウーロン茶を置きながら、俺は田町に挨拶をする。
「あの…いつもお世話になってます。巧の友人の西岡歩です」
すると田町は意外だ、という顔をする。
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