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「大丈夫、歩君」
裏で休んでいると、マスターが駆けつけてくれた。さっきの呑み残しとは違う、暖かいお茶を入れて来てくれた。薬を飲んで三十分も経つと、身体も落ち着いて来る。もう大丈夫そうです、と言うとマスターは無理しないでいいよ、と言ってくれた。本当に優しい人だ。
「大変だね、Ωの歩君は」
煙草の煙を吐いて、マスターは言う。その煙草の咥え方には、哀愁が漂っていた。大人だな、と俺は思った。
「巧君がいて良かったね。頼れる彼氏だ」
俺は、はいと素直に答えた。俺をここに連れてきてくれたのは巧だ。巧がいなかったら、俺は一体今頃どうなっていたのだろう。考えただけでもぞっとする。
「俺は何でβなんだろう、て思ったこともあったけどさ。何だかβって、一番ストレスが少ない気がするよ。きっと、俺がΩやαだったらどうしようもなかったかな」
「そんなことは無いです、俺だって、巧がいなかったら、今頃…」
「大変だったろうね。若いからね…でもさァ、逆に若いから何でもできるよ。いっそ俺みたいになっちまうともう」
マスターは苦笑した。それから煙草を灰皿に押し込んだ。
動けるようになったら来て、そう言ってマスターは喫煙所を出て行く。俺は、その姿を見つめながら、背筋を伸ばした。それから立ち上がり、深呼吸をした。そのままカウンターへ戻ると、もう巧と田町の姿は無かった。
ドアのベルが鳴る。
俺はいらっしゃいませ、と言って自分の仕事に向き合うのだった。
毎日忙しい日々が過ぎていく。
相も変わらずの、すれ違いの日々は変わらない。気づけば銀時と喫煙所でセックスした日から随分過ぎていた。学生の日々と比べると、毎日が異様に早く感じる。
その男が現れたのは、二月が終わる頃だった。
俺はいつものように店内の掃除を終え、グラスを拭き、磨く作業に入っていた。グレーのコートを着た背の高いそいつは、オールバックの髪形に洒落たチェーン付きの眼鏡をしていた。齢は四十前、といったところだろうか。
カウンターに一人で座ったその客に、俺は注文を取りに行った。
「いらっしゃいませ、ご注文は」
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