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「ああ。マティーニを一つ」
「はい」
俺はマスターにシェイキングを依頼した。かち、かち、というマスターのシェイカーを振る連続音が店内にこだまする。黄色とも緑とも言い難い不思議な、それでいて大人の色と思わせる何かがマティーニの魅力だ、と思う。放られた真っ赤なチェリーが更に色っぽく見える。飲んだことは無いが、このカクテルは俺にとって一番魅力的なカクテルなのである。
カウンターから、マスターがその男にカクテルを差し出すと男はまず酒の匂いを嗅いだ。満足したのか、おもむろに口を付ける。一口飲んでから、男は言った。
「ふむ…いい出来だ」
奥でありがとうございます、とマスターが言うのが聴こえる。俺はマスターの事を本気で凄いと思った。
「君は、Ωですか」
唐突に自分の秘密を暴かれて、俺は時が止まったかのように固まっていた。
「ふむ…首輪もしていない。番がいないのですね」
まるで品定めするかのように、その男は俺をじろじろと見つめる。そう、足の先から頭の先までー。俺は鳥肌が立つのを感じた。
「番を見つける気はないのですか」
「俺は…そんな…そんなことをするつもりは」
「何故です」
冷たく見つめられて、俺は言葉を失った。
何故?
そんなこと、決まっている。
巧が好きだからだ。
でもそれをこの知らない客にどういったらいいか分からず、俺は押し黙った。下を向くと、床の木目がいびつであることに気付く。胸を張って言いたいことが言えないもどかしさに、俺の心は潰されそうだった。
「歩君」
マスターが呼ぶので、そのまま俺はカウンターに戻った。
「大丈夫?プライベートなことを聞いて来る客は相手にしなくていいから。グラス磨いといて」
そう言うと俺の代わりにマスターがその客の元に行った。
「うちのスタッフが何か?どうもすみませんでした」
マスターが謝るのを聞くと、俺は酷く悔しくなった。
「いえいえ…あなたが雇い主ですか。随分酔狂ですね、このご時世に」
マティーニを一口飲むと、そいつは続けた。
「私は種族の管理をしている者です、これが名刺」
マスターはその男から名刺を預かった。
「いやあね、此処でΩがいるという情報をもらったもので…半信半疑で来てみたのですが」
その男は俺をまた見つめる。
「ヒート時の内服はしているみたいですね…あなたが彼の管理をされているのですか」
マスターはいいえ、と言った。
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