一 「予約へ」1-1

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一 「予約へ」1-1

 クリスマスの季節は、楽しいものだと思っていた。  街は煌びやかな光に包まれて、行き交う人々に笑みが溢れ、目に映る空間が明るく輝いている。  家族と過ごす人は笑顔を囲んで時を過ごす。  恋人たちはクリスマスディナーに出かけて胸をときめかせる。  愛する人に全身全霊の心をさらけ出しても許される日とも言える。  誰もが期待と喜びを抱いて持ち望む季節なのに。  そのはずが、結婚してわずか数年で、「楽しい」から「楽しいはず」と、確信から疑問へと移り変わり、今では「楽しかった」と、過去形になってしまった。  こんなはずじゃなかった。  あの頃は、季節が寒くても、つないだ手は温かかった。  智也(ともや)は私の手だけでなく、心まで温かくなるほど優しく包んでくれた。  なのに、大切な思いを抱いて過ごせた日は、いつの間にか私の前から消え去ってしまった。  季節だけでなく、心までも移り変わってしまうなんて。  二人で手をつないで歩いたのはいつの日か。そんな想い出さえ、智也はもう忘れてしまったのだろう。  智也の背中を見つめて思うことは、今の私たちには、いつのまにか距離できてしまったということ。  目の前の光景を指しているのではなく、心に感じる思いの違いだ。  今の私は、昔の私になっていた。  私は智也と出逢うまで、いつも寂しさと孤独を感じながら生きてきた。  誰でもいいから私のそばに、いつもそばにいて欲しいと願った。  ささやかな願いだけど、大切な願いである。  この思いには私なりに理由がある。  私は一人になると、突然暗闇に吸い込まれるような不安を感じ、逃れようもない孤独に襲われることがあった。私の前から何もかもが一瞬で消え去ってしまうような恐怖に怯えていた。そんな理不尽な消滅の怖さを感じた。それが一体どこからくるものなのか、私自身にもわからない。  だからこそ、智也にはいつもそばにいて欲しかった。  仕事に勤しみ、社会的地位を得るよりも、平凡でいいから二人の時間が欲しいと願っていた。  私が自分の思いを求めすぎたから、その煩わしさから智也の心が離れてしまったのかもしれない。たぶんそうなのだろう。  この一年間、智也と夫婦らしい会話など何一つなかった。そんな状態で、今更二人で映画鑑賞をしても、感動なんてなにも得られないと思う。  最後の結婚記念日に映画鑑賞なんて選ばなくてもいいのに。ましてやその予約に二人で出かけなくてはならないとは。  智也は、まだ私に未練があるのだろうか。  いえそんなことはけっしてあるはずがない。  智也が私に未練があるなんて、そんなことは……。  そうよ。愛情がわずかでも残っているのなら、もっと私に優しい言葉をかけてくれたはずだし、私のしたいことにも耳を傾けてくれたはずだ。  智也にとって、私はただの同居人、もしくは家政婦でしかないと思えてしまう。  智也が、「好きだ」、「愛してる」といった大切な言葉を口にしなくなって、さらに久しい年月が過ぎた。 「千恵(ちえ)」と名前で呼ばれなくなって、「お前」から「おい」と移り変わった。  私はかけ声じゃない。  このままだと私が消えてしまう。死んだと同じだ。自分の生きている形をしっかりと持たなければ、私は壊れてしまう。  一年前、私が英会話を活かした仕事に就きたいと智也に相談をした時も虚しさを感じた。 「今の俺の稼ぎに何が不満なんだ」と智也に一喝されて話が終わった。  それ以来、私の話なんか何一つ聞いてもくれない。  自分を理解してもらえない人と過ごす日々は苦痛だ。  智也にとって、私の価値とは、私の存在とは、一体なんだったんだろう。 「あんな男と結婚をしても、お前は幸せになれん」  智也とのつき合いを反対された時、父から断言された言葉が蘇り、痛々しく胸に突き刺さった。  あの時、家を飛び出したのは、やはり父の言う通り間違いだったのかもしれない。  でも、あのまま家に止まり、親に用意されたお見合い結婚なんてしようものなら、私は人形のまま人生を終えていただろう。  父は物さえ与えれば、私が満足し、喜びにあふれ、幸せなんだと勘違いをしていた。  確かに、物では不自由のない生活を与えてくれた。それでも私は、満足どころか愛情に飢え、空虚な空間に投げ捨てられ、閉じこめられていた。  毎日が針の(むしろ)に座らされているように痛く、氷室の中、抑圧された窮屈感で息苦しかった。心が押し潰されそうになった。そんな私を、温かく大らかに包んでくれたのが智也なのに。  智也が聞かせてくれた話は、私にとって、なにもかもが新鮮で、どきどきと胸が高鳴り興奮した。  ゲームセンター、喫茶店、定食屋、居酒屋、遊園地、映画館と、この世界のすべてがデートスポットになり、私の世界が限りなく広がった。世間知らずな私を広い世界へと引き出してくれた。  あの頃は、どこにいても、何をしても、二人はいつも一緒なんだと感じた。心が温かかった。通じ合う心に幸せを感じた。  智也なら、私の人生を、私の生活を、私の心を、命あるものに変えてくれると信じていた。信じていたのに。  千恵は足早に歩く智也の影を見つめながら複雑な心境で歩いた。 「おい。もう少し早く歩かないと予約時間に遅れてしまうぞ」  家を出て、初めて智也が私に振り向いた。  昔のように笑って気遣ってくれる顔は、そこにはない。  今の智也は、父と同じ顔をしている。  人を近寄らせない顔  人に心を閉ざした顔。  愛情が伝わらない顔。  いつからこんな智也に変わってしまったのかさえも思い出せない。  千恵の想いは沈んでゆくしかなった。
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