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一 「予約へ」1-2
智也は、あの時の千恵を思い出していた。
驚き、怯えるような千恵の表情を目の当たりにして、千恵以上に驚いたのは智也の方だ。
千恵は、いつからこんな愛情のない顔を俺に見せるようになったんだ。
そういえば、千恵の笑顔など、最近は見ていない。
いつから笑わなくなった。……思い出せない。
出会った頃は、どんな話をしても、どんな場所へ連れて行っても、興味津々に耳を傾け、目を瞠って驚き、笑顔を絶やさなかった。
それが今じゃどうだ。
俺の一言一言に萎縮し、ぎょっとした目を俺に向ける。
見知らぬ他人を目の前にしているような表情で俺を見つめる。
わざと視線を合わさない時もある。
俺の体を通り越した背景に視点を合わせているようにも感じる。
何をそんなに怖がる必要があるんだ。
俺が暴力の一つでもふるったことがあるか。そんなことは一度だってしたことがない。
もう俺に興味がなくなったのか。
俺と話をしても楽しくないのか。
俺と一緒にいても笑えないのか。
俺は、俺は、毎日、一生懸命、力の限り、千恵のために働いてきたんだ。千恵を守るためにがむしゃらになって働いてきたんだ。だからこそ今の生活があるんじゃないか。
今の生活に、まだ不満があるのか。
この不況時代に、四十代で手取り二十八万円ほどならそんなに悪くないはずだ。
俺はリストラもされずに、今でも会社にしがみつきながらがんばっているんだ。
何も言わなくても、家庭のために、二人のために、千恵のために、必死でがんばってきたことを、千恵が一番よくわかっていることだ。
なのに、なぜ千恵は変わってしまったんだ。
若い頃は俺の体を心配してくれたり、はげましてくれた。
十二歳の年齢差なんて、何も感じなかった。
今になって、千恵が俺との世代間を感じるなんてあり得ない。
今更世代間なんていう思いなど、持つわけがないじゃないか。
じゃあどうしてこうなった。
千恵が何を考えているのか、俺にはわからない。
友達夫婦にも会話がない。という話を時たま耳にすることもある。
子供が生まれると、夫婦間における会話の共通点が、子供の話題だけになり、お互いそれ以外の話をしても、若い頃のようには楽しめないとも。
しかしながら、俺たち夫婦の間には、子供がいない。
異性として興味がなくなったのか。
互いが異性として存在するのではなく、戦友のような、同胞的な存在になってしまったのか。
年月と共に夫婦の関係が変わっていくのかもしれない。
しかし、そんな関係になってしまうには、俺たちはまだ若い。
セックスもないわけではなかった。同僚の話を聞いても、四十代で月一のペースは少ないことじゃない。三年前までは、月に一度くらいは確かにあった。俺たちよりセックスレスの期間が長い夫婦だっているはずだ。
三十代の千恵にとっては、それが不満なのかもしれない。
しかし、仕事の疲れで若い頃のようにはいかない。
子供ができなかったせいだろうか。
女性にとっては、簡単に割り切れる問題ではないのだろう。
何もかも正直に告白をすればよかった。だが時期を逸したように思う。もうそういう問題ではないのだろう。
どうしていつも俺の前には何か途方もない壁が立ち塞がるんだ。
どうしていつも背負いきれない何かがのしかかってくるんだ。
俺なりに必死でがんばっているのに、なぜか上手く立ち回れない。
俺の人生とは、こんなものか。
人生の節目節目に、なぜか喪失感が存在する。
まるで意地悪な双六ゲームでもしているようだ。肝心なところでふりだしに戻されてしまう。
三ヶ月前、千恵が離婚届を差し出した時は、正直言って驚いた。
安藤千恵と書いた紙切れをテーブルに置いたその手は震えていた。
離婚という大胆な考えを行動に移した千恵自身が一番驚いていたようにも思えた。
「なんだこれは」と訊ねても、「わかってください」の一点張りで、何度理由を訊いても、それ以外は何も答えてくれなかった。
千恵の意志は固かった。
女が一旦決心をすれば、男より行動に移すのが早い。気持ちが揺らぐこともない。
家を飛び出して来た千恵の気丈さを考えれば、そんなことくらいは想像がつく。
もしかしたら、もう男ができたのかもしれない。
最悪だ。
本心を言えば、俺はまだ千恵に未練が残っている。
しかし、千恵は頑なに離婚を望んだ。
渋々ながらも承諾の意を示すには、何かきっかけになるものが欲しかった。在り来たりの食事で別れるのではなく、何か違った特別な想い出を残して別れたかった。そうでもしなければ自分を納得させることができなかった。
それが最後の記念日に高級レストランではなく、映画鑑賞を選んだ智也の理由である。
映画鑑賞といっても、どんな映画なのか、実のところ智也自身も想像すらできなかった。
智也に映画鑑賞を推奨したのは、他ならぬ同期の金子公彦だ。
当初は、智也の方が、金子から夫婦間の悩みと離婚の相談を受けていた。
金子の離婚はもう秒読みの段階だと思っていた。
誰の目にも、金子夫婦が離婚すると映っていた。
それがある日を境にして、掌をくるっと返したように金子夫婦の縒りが戻った。
夫婦喧嘩と夏の餅は犬も食わぬと、他人には理解できない摩訶不思議な出来事だ。
結果的にはよき方向へと転び、安堵を浮かべたのはよかったが、今度は自分が離婚問題に直面し、悩むことになるとは。
智也は困惑するばかりで、何も解決策が浮かばなかった。
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