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山入端は時の鐘 1
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ここはどこだ?
すべてが深い霧に包まれている。
自分が地面に転がっているのは判った、手足を投げ出し、仰向けになっていたから。
しかし、それなら見えるはずの空は乳白色に覆われて、何も見えなかったし、投げ出しているはずの手足の感覚すらなかったので、今もちゃんと身体に付いているのかも怪しかった。
すぐ傍に爆撃が落ちてきて、身体ごとふっ飛んだのだ。
手足のうちどこか、吹き飛んでいてもおかしくない。
痛みさえ麻痺しているのが有難いくらいだ。
起き上がることもままならず大の字になっていると、霧がゆっくりと流れを見せた。
このまどろみの中を、動くものがあるようだ。
落ち着いた足音が、ゆっくりとこちらへ近付いてくる。
顔を動かすことはできたので、その方角を向くと、大きな影が寄ってくるところだった。
もったいぶった重い足取り。
やがて、
「よう」
ひどく面構えの悪い、黒ずくめの男が霧の中から姿を現した。
馴れ馴れしく話しかけてきた割には知らない男だが、向こうは俺のことをまるで知っているような風体で、
「こいつはひでえな」
横たわった俺の身体を一瞥し、歪んだ笑みを浮かべる。
感覚が麻痺しているため、どこがどう酷いのか判らなかったし、できれば聞きたくない。しかし男は酷いというくせに、それが喜ばしいとでもいうように笑んだまま、
「有り難く思えよ」
次にはそんな言葉を俺に落とした。
「今、この瞬間にこの世で死にかけている人間のうち、お前がこの極東(きょくとう)様に選ばれたんだ。けったいな生贄としてな」
黒く長い、全身を覆うマントから、すらりとした脚が伸び、磨き抜かれた靴の爪先で、俺は右の二の腕辺りを蹴られた。
いたぶるために蹴りつけられたというより、身体を退かされるように、身体の下に爪先を潜り込ませ、男は俺を蹴って動かしていくつもりらしい。
随分な仕打ちだったがもはや抵抗する力もない。
俺はただされるままになっていると、左の肩がふっと浮き上がった。
引っ張られるような感覚と同時に、左腕がだらりと下がり、なにか冷たい物を捉えた。俺はぎょっとした。
「……何故お前が選ばれたか判るか?」
水だ。
川べりまで俺は男に運ばれて、半身が既に落とされるところまできている。
霧に音も吸い込まれてしまうのか、微かなものになってしまっているが、耳を澄ませば確かに水音もしている。
俺は充分死にかかっているにも関わらず、この期に及んで溺れ死にたくないと身体をよじった。
男はそんな無様な俺がおかしいのか、身を屈め、俺に顔を近付けた。
鋭く強い目力の、明らかに柄の悪い男は、俺に生えている眉毛の一本一本にまでガンをつけるように、俺の顔を眺め渡し、
「お前にはなにもねえからだよ」
と宣告した。
「今まさに、俺への扉へ向かっている奴らの中で、誰よりお前には何もなく、お前自身もそう思ってるからだ。己には何もないというならば、俺達の生贄になれるだろ?」
男は身体を起こし、束の間霧の彼方を眺める。
今度の小さな微笑みは、先程とは違った、霧の彼方にいるはずの、遠い誰かを思い浮かべているみたいな、素直なものに俺には見えた。
男はそのまま表情のまま俺を見おろし、ひと蹴りで俺を川にぶち込むと、
「俺はそういう輩が死ぬほど嫌いなんだよ」
小さく肩を竦めた。その姿はすぐに見えなくなる。
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