1822人が本棚に入れています
本棚に追加
/124ページ
act.124
Present ー現在ー
離れのリフォームが無事終わって。
聡士は真新しいベランダに出て、目を細めた。
空気はまだ肌寒かったが、陽の光はぽかぽかとしていて、春の訪れを予感させた。
目の前に広がる風景に視線を巡らせると、つい先週まで雪を被っていた林の樹々も雪解けを迎えつつあった。また、離れから主屋に続くメインの庭の雪も日陰の部分に多少残るぐらいで、日本芝の黄色い色が陽に照らされてキラキラと輝いていた。
しかし一番に目を引くのは、やはり眼前に広がる湖の姿だ。
今日は風もないせいか湖面はまるで鏡のように澄み渡り、青空を写し鏡のように反射させている。
もう少ししたら春の新緑に縁取られ、なんとも清々しい姿に変貌していくだろう。
「まさかまた、この地に戻って来れるなんてな………」
聡士は誰に聞かせるでもなく、今更ながらそうポツリと呟いた。
都会の生活から離れ、確かに不便に感じることもあったが、それを差し引いても、この気持ちのいい空気に囲まれ、常に小鳥の声が聞こえてくるこの地での生活は、聡士を随分リラックスさせてくれ、また浄化してくれているように感じる。
── しかも、自分が欲しいと思っていた全てが、ここに揃っているだなんて奇跡…………。感謝してもしたりない。一年前には想像もしていなかったことだ。
聡士はそう思いながら、小鼻の先を少し摘んだ。
仕事、環境、家族 ── そして恋人。
今僅かにある不安が何かと言えば、いよいよ来月開業が迫る新店舗にお客様が来てくれるようになるかどうかだ。
だが、開業に向けて怜央が立ち上げた店のSNSには、続々とセクメト時代の常連客がコメントを寄せてくれていて、中にはそこで直接予約の相談を持ち出してくる人もいて、なんとも心強かった。
主屋のリフォーム工事はまだ続いていたが、一番の難関だった厨房の高さを基礎からかさ増しする工事が無事終わり、残りはベーカリースペースの仕上げが残っている状況だった。
── ふいに足元で「キャッキャ」と賑やかな声がして。
聡士が視線を落とすと、庭の大きく開けたスペースに、アルフォンスと重幸、そして町の子ども達が数人、歓声を上げながら出てきていた。
そこで、即席のバスケットボールゲームが始まる。
菅野の息子が大きなアオハダの大木に結びつけてくれた竹籠がゴールの代わりだ。
最近では、学校が休みの日に、町の子ども達が遊びに来てくれるようになった。
アルフォンスが積極的に町の人と交流している効果なのか、アルフォンスが歩いて町まで散策に出かけていくと、帰りは大抵『ハメルンの笛吹き』のように町の子ども達が彼の後をゾロゾロとついてくるようになった。
きっと大柄な白人男性が珍しいのだろうが、これも予想外のいい変化だった。
聡士は表情を綻ばせながら、子ども達の歓声をBGMに、洗濯物を干し始める。
すると後ろで人の気配がした。
怜央だった。
「おい、洗濯物、全部干せそうか?」
怜央はそう言いながら、ベランダに出てくる。
「ああ、帰って来てたのか。まぁ行けそうだ。ここだけじゃなくて、中にも干す場所があるし」
聡士は、さっきまで怜央が立っていたランドリールームを親指で差しながら、そう答える。
「そうか、よかった。ベランダ、随分削ったから、面積が足りるかどうか不安だったんだ」
怜央はそう言いながら、3人分の洗濯物の量をじっと眺めた。
以前は、怜央の部屋だったところから一番大きな主寝室の端まで広く長いベランダがつけられてあったが、今は怜央の部屋があったところのスペースだけになっていた。
主寝室から直接湖が見渡せるようにしたいと、怜央がベランダを取っ払ってしまったからだ。
おかげで寝室からの眺望は、まるで高級ホテルのそれのような、素晴らしい眺めになっている。
「よく考えられてる間取りで助かってるよ。クローゼットからランドリー、ベランダまでの動線がスムーズで物凄く楽だ」
聡士がそう言うと、怜央は嬉しそうにニンマリと笑った。
怜央が考えた間取りは、昔の聡士と怜央の部屋だったところをウォークインクローゼット兼物置とランドリールームに変え、主寝室にはなんとキッチンをくっつけるというかなり突飛なものだったので、工事を請け負った工務店もかなり驚いていた。
一階のキッチンも残していたので、普通の感覚からしたら、2階にもキッチンがあることが不自然に思えたのだろう。
だがそれは、怜央がアルフォンスの希望を汲み取って考えてくれたアイデアだった。「ベッドでぬくぬくしながら恋人が料理をする姿を眺める」という至福のひと時 ── つまりアルフォンスが東京の聡士の部屋に居候していた頃に味をしめたことだ ── を新生活でも満喫したいというアルフォンスの夢を叶えた形だ。
だが聡士としても、メニュー開発の場として心置きなく使えるキッチンラボが身近にあることは、とてもありがたかった。
やはり怜央は、そういう才能に長けていると改めて痛感させられる。
怜央はリフォームの陣頭指揮を取る傍ら、オープン間近のバステトの広報、加えて新しい人材の採用活動と、スタッフの中で今一番忙しく働いていた。
今日も東京出張から帰って来たばかりだ。
「そういや、東京、どうだった?」
「ん? ああ………」
怜央は大きく深呼吸をした後、顎の下を撫でた。
「何人か、良さそうなのがいたよ。そのうち、ここの見学に来させてみる予定」
「そうか。よかった。健朗さんと励子さんは元気だった?」
「ああ。無駄に元気そうだったぜ。 ── あ。そうそう。小塚のオッサンに“ついでだから来月の家賃、預かっていきますよ“っつったら、メチャメチャ不機嫌な顔された」
怜央はさも面白そうに笑いながら、そう話す。
小塚は、宣言通り聡士から借りた部屋に引っ越し、先月初めての家賃なるものをわざわざここまで支払いに来ていた。
散々リフォーム中の建物を見学しまくって、「ま、思ったより悪くないわ」と捨て台詞を吐いて帰って行った。
小塚の不機嫌そうな顔が容易に目に浮かんで、聡士も思わず笑ってしまった。
「振り込みでいいって言ってるんだけどな。よくわからない人だ」
聡士がそう言うのを、怜央はきょとんとした顔つきで見つめ、その後すぐに苦笑いした。
「なんだよ?」
「え?」
「その顔。どういう意味?」
「別に。オッサン、相変わらず報われねぇなぁってさ。それより、東京はちょっと物騒になってきてる。次の出張は、様子を見ながら行くことにするわ」
「そうなのか? まさか…………」
最近賑わせているニュースを思い出しつつ聡士が言葉を濁らせると、怜央も頷いて、ベランダの手すりに身体を凭れさせた。
「新型コロナの感染者が徐々に増えてきてる。俺は車移動だったから、あまり人混みに巻き込まれるようなことはなかったが、ありゃ一応気をつけた方がいいな」
「あまり広がっていかなければいいけどな………」
聡士がそう呟くと、怜央も「そうだな」と小さく返してきた。
そうしていると、再び庭で大きな歓声が上がった。
子どもの一人が、ゴールを決めたようだ。
怜央が身を乗り出して、その様子を覗き込む。聡士は、洗濯物を干す作業に戻った。
聡士が最後の洗濯物をピンチに挟んだ頃、怜央がふいに口を開いた。
「アルが心底楽しそうにしてて、何よりだわ」
「え?」
聡士はそう返しながら怜央の隣に立ち、同じように下を覗き込んだ。
庭では、アルフォンスが竹籠から取り出したボールを上に翳して持ち、その下で子ども達がぴょんぴょんと跳ねていた。
「ズルい〜!」
アルフォンスの朗らかな笑い声に混じって、子ども達のそんな声が聞こえてくる。
アルフォンスが2階の聡士と怜央の姿に気がついて、手を振ってきた。
子ども達や重幸も釣られるように視線を向けてきて、同じように手を振ってくる。
それに応えるように笑顔を浮かべながら手を振る怜央を、聡士は目を細めて眺めた。
そんな朗らかな表情を浮かべる怜央を見るのは、久しぶりのような気がした。
しばらく二人で庭の様子を眺める。
そしてふいに怜央が庭に視線を向けたまま、ポツリとこう言った。
「 ── なぁ、聡士。俺ら、随分長いこと遠回りして、迷ったり、傷つけあったりしてきたけど…………。やっとようやく、ここまで辿り着けたな」
怜央のその言葉に、聡士は目を大きく見開いた。
それはごく短い言葉だったが、怜央の万感の思いが込められているような気がした。
その言葉が心に染みて、聡士の目から思わず涙が溢れた。
これまでのことが脳裏に走馬灯のように浮かんで、聡士の心を締め付けた。
「アルには、感謝してもしたりねぇな」
「うん…………うん…………」
聡士が涙を拭いながらそう答えると、怜央はクイッと片眉を引き上げながら、聡士の方に顔を向けた。
「なんだよ。お前、また泣いてんのか」
「泣いてなんかない」
聡士がそう言うと、怜央は顔を綻ばせた。
「泣いてるじゃねぇか」
聡士は唇を尖らせる。
「これは嬉し涙だから、泣いてるのとは違う」
聡士がそう答えると、怜央はフッと鼻を鳴らした。
「なんだ、その理屈」
怜央はそう言いながら彼の指で聡士の涙を拭うと、そのまま聡士の頬をそっと引き寄せ、そっと口付けた。
最初は大きく目を見開いた聡士だったが、やがて目を閉じると、怜央のセーターの肘の部分に手を添えて、ギュッと握った。
それは単に唇を併せただけの淡いキスだったが、心に染み入るようなキスだった。
キスをし終わると、怜央が「アハハ」と笑い声を上げる。
聡士が訝しげに思って目を開けると、庭でアルフォンスがオーバーアクションで皆の目を自分に引きつけているところだった。
どうやら二人のキスシーンを子ども達や重幸に見せまいと思ったのだろうか。
最終的にアルフォンスは子ども達に引き倒され、もみくちゃにされていた。
「あー、ありゃひでぇ」
怜央がそう笑ながら呟いた時、子どもにもみくちゃにされながらも、アルフォンスが二人に向かって親指でグッドサインを出したのだった。
ある日の午後。
ようやく仕上がったベーカリースペースに、果凛は徹と共に小麦粉やら卵やらの材料を運び込む作業を行っていた。
「徹くん、これはここでいい?」
「ああ、いいよ。運ぶのは軽いものだけでからね」
「大丈夫。私意外と力持ちだから」
果凛はそう言いながら、また駐車場に取って返し、荷物を手に取って庭側に回った。
そこでふと、足を止める。
今回の大規模な改築に伴って、メインの広い庭の中程に木製のロングベンチがお目見えしていた。
ベーカリーカフェやレストランに来られるお客様に、庭から見える美しい湖の風景を楽しんでもらおうと新たに設置されたものだ。
今そこに、アルフォンス、聡士、怜央の3人が腰掛けていた
左端に座るアルフォンスは読書に勤しみ、右端に座る怜央はスマホの画面と睨めっこしている。真ん中に座る聡士は、アルフォンスの肩を枕に、そして脚を怜央の膝の上に投げ出して、珍しく一人うたた寝をしているようだった。
「 ── 果凛ちゃん、大丈夫? 何かあった?」
帰ってこない果凛を心配したのか、徹が店から出てきた。
「ん? んーん。なんでもない」
そう答える果凛越し、徹が果凛の視線の先を追う。
「あぁ、なんだ。聡士さん、珍しい。アルさんと怜央さんを枕と布団にしてる」
徹が笑い声を上げた。
「あの3人、一体どういう関係なんだろうね? 全然わかんないや」
「いいの、わかんなくても。3人が幸せそうなら、それで」
徹が、果凛の声を聞いて、視線を向ける。
「え? どうしたの、果凛ちゃん。泣いてるの?」
徹にそう言われ、果凛は荷物を小脇に抱え、空いた手で涙を拭った。
徹が果凛の腕から荷物を受け取る。
「大丈夫?」
徹がそう聞くと、果凛は「うん」と頷いた。
果凛の視界の中で、3人の姿が涙に彩られてキラキラと輝いていた。
「嬉しいの。私が見たかった光景は、これだったんだってわかって。それが、嬉しい」
果凛はそう言って、微笑んだのだった。
DISH! DISH!! DISH!!! End.
── あー。
ついに終わっちゃいました。
ENDマークをつけられた嬉しさ反面、終わっちゃったもの寂しさ半分。
こんな着地点で、皆様、よかったでしょうか?
大丈夫だった????
まぁ、そんな簡単に答えなんて出せそうにないお話になってしまった「おさら」なんですが。
連載当初はこんなに複雑な話になるとは予想もしていなくて。
最初立てたプロットでの怜央はというと、単なるアルフォンスの当て馬でしかなく、もっとお軽くて負けん気だけは強いという、底の浅いキャラクターでしかありませんでした。
それが連載更新を続けていく中で、あれよあれよと変化していって…………。
思えば、これほどまでに読者様に育てられたキャラクター、そしてお話はなかったんじゃないかと思います。
今まで制作してきたお話の中でも、作者自身、本当に先の読めない作品だったなぁ。
「こんなことってある?」と何度も口にするくらい、毎週末彼らの世界に視線を向けることが楽しくもあり、怖くもあるそんな日々でした。
読者の皆様におかれましては、前作「おてて」より長丁場となる124話、最後までお付き合いいただきまして、本当に本当に本当にありがとうございました。
感謝の気持ちでいっぱいです。
(国沢)
最初のコメントを投稿しよう!