act.01

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act.01

Past ─ 過去 ─  「お父さんが死んだのは、聡士のせいよ」  そう言った母さんの顔を、俺は今でも忘れられない。  あの時の母さんは随分取り乱していたし、次の日になったらまた前のような笑顔を俺に向けてくれると思っていたけど、そんな日はもう来なかった。  そうだ。  父さんが死んだのは、俺が子どもを作れない身体になったせい。  俺が子どもを作れない身体になったのは、料理屋の切り盛りで忙しい両親に遠慮して、具合が悪くなっていたことを俺が隠してたせい。  気づいたら俺は入院しなければならないほどの高熱に見舞われていて、取り返しがつかないところまでいってしまっていたんだ。  父さんはとても優しい人で、俺のことを大層可愛がってくれた。  それが仇になってしまった。  父さんは優し過ぎた。  自分で自分を際限なく責め立てるほどに。  父さんは、俺の病気に気づかなかった自分を責め、医者から俺の行く末がどうなるかを聞いて、絶望した。  あの日、冷たくなった父さんを見つけたのは、俺だ。  小学校から帰ってきたら母さんは父さんの薬を取りに行くと書き置きがしてあって、俺はなぜだか胸騒ぎがして、一階の店に降りたんだ。  父さんは後生大事にしていた包丁で、首を切って死んでいた。  俺は母さんが帰って来るまで、そこに立ち竦んでいた。  目の前の光景が、テレビの中の出来事のようで。 「なぜ救急車を呼ばなかったの⁈」  ── 母さん、一目見て、父さんはもう死んでいたんだ。 「そもそも聡士があの時ちゃんと具合が悪いことを教えてくれてたら、父さんは心の病になることはなかった」  ── 母さん、ごめんよ。そんなに凄い病気だってわからなかったんだ。 「お父さんが死んだのは、聡士のせいよ」  ── そうだね、母さん。俺のせいだ。  母さんは心底父さんを愛していたから、俺より父さんのことが大好きだったから、父さんのいない生活や父さんを殺した俺と暮らしていくのが無理だったんだ。  暴力は振るわれなかったけれど、母さんは俺のことを避けるようになった。たまに俺の顔を見ては、しくしくと泣いた。  何もできなくなった母さんのために、父さんがしていたことを思い出しながら、見様見真似でご飯を作った時だけ、「美味しいね」と言って笑ってくれた。でも次第に、寝床からも出てこなくてなってしまったんだ。  俺はまだ8歳だったけれど、もう一緒に暮らすことはできないと思った。この人をこれ以上傷つけてはいけないんだって。  学校の先生に家を出たいことを伝えると、瞬く間に虐待を疑われて大騒ぎになってしまった。  あの頃は、やることなすことが全部裏目に出て、とても辛かった。  結果俺は、周囲の大人を説得して、9歳で家を出ることになった。  これでもう俺の帰る場所はなくなってしまった、そう思った。  あの日、怜央と出逢うまで。     Present ─ 現在 ─  ── ジリリリリ……  井関聡士は、目にかかる真っ黒い前髪を掻き上げ、のっそりとベッドから顔を起こした。  レースのカーテンしか引っかかっていない窓の外は日の出前で真っ暗。まだ小鳥の声すら聞こえてこない。  聡士は目覚ましのベルを重い動作で止め、ベッドから起き上がると、顔を両手で擦りながら大きな溜め息をついた。  彼は低血圧という訳ではないが、何せ2時間しか眠っていないので、脳みそにエンジンがかかるまでやや時間がかかる。  彼は寝乱れた髪のまま、まずは部屋の電気をつけた。半ば強制的に自分の目を覚まさせるために。  昼白色の蛍光灯に照らされた部屋は、ベッドの向かい側の壁際にある業務用の大きなキッチンスペースがやたらと目立つが、その他はあまり物がないガランとした空間だ。  雑居ビルの最上階をリノベーション……と言えば聞こえがいいが、どうしても職場から徒歩5分の位置に居を構えたかった聡士が、放置されていた空きビルの最上階を格安で買い取って無理矢理リフォームし住み始めたため、夏はすこぶる暑くて冬は心底寒い、まるで業務用倉庫のようなワンルームだ。広さだけは自慢できるが、オシャレな一人暮らし、という風情ではない。この部屋にはソファーやテレビすらないのだ。  聡士は部屋の広さからは些かアンバランスな狭さの洗面所に入ると、鏡を見た。  日頃の疲れが溜まっているのか、少々顔が浮腫んでいるのを発見して、聡士はハァと溜め息をついた。ぷっくりとした目袋の下にもう一つの膨らみが浮き上がっている。聡士は、浮腫みが取れるように、何度も冷たい水で顔を洗った。  鏡に映る彼の顔は、重めの瞼に覆われた一重の目が印象的だった。目力があり、見る人によっては目つきが悪いと取る人もいるし、ミステリアスでクールだと言う人もいる。  睫毛は短めだが密集しているので、一見アイラインを引いたように見える。  鼻筋はスッと通っており、小さめの唇は上唇は薄め。それが益々彼をクールなイメージにさせているが、下唇は案外ぽてっとしている。  頬はつるんとしていて色白。だが、それを縁取るサラリとした髪や真っ直ぐな形の眉は真っ黒だった。生まれてこの方、髪を染めたことはない。しかし一方で髭は薄めなので、ありがたいことに髭剃りにはさほど手間はかからなかった。  聡士は、寝癖を手早く直すために長袖Tシャツとゆったりとしたシルエットの綿パン、下着も脱いで、奥のバスルームでざっとシャワーを浴びた。  極狭なバスルームにはシャワーがあるだけで湯船はない。どうせ帰って寝るだけの部屋と割り切って、リフォーム代を浮かせるためにそうした。この部屋は終始そんな感じで、住人の性格を反映するように随分無愛想にできている。  聡士は中背でスリムな身体付きだったが、その身体はびっしりとタイトな筋肉に覆われていた。特に胸筋と両腕の筋肉は、細い割に腕を動かす度に筋肉の形がはっきりと浮き出るほどである。まだ31歳という若さのお陰で黙っていても腹筋が維持できているということもあるが、仕事自体がハードに肉体を使う職種なので、自然とこういう身体付きになる。実用的で小気味のいい美しい身体だった。  洗面所で髪を乾かした後、作り付けのクローゼットの戸を開けた。ものの見事に黒のTシャツと黒いパンツ、黒のカーディガンしかぶら下がっていない。  スティーブ・ジョブズ気取りではないが、彼には毎日のコーディネートに悩む暇はないし、必要経費に給与のほとんどが消えて行くので、ワードローブは自然とこんな風になっていった。  身支度を終え、ようやくキッチンに立つと、彼はハァとまた吐息をついた。今度の息は先程のとは違ってホッと暖かなものだ。彼にとっては、このスペースに立つのが一番落ち着く。  聡士は日本料理の料理人が着るようなジンベエ型の白衣と膝下まである白い前掛けを身につけながら、一人暮らしにしては巨大な業務用の冷蔵庫を開け、中を覗き込んだ。  中は整然と食材が並べてあって、全てがベストの保管方法で丁寧に仕舞われてある。  全てにおいて時間が不足気味の聡士だったが、朝食だけはしっかり料理をして食べるのが日課だ。次の食事は11〜12時間後になるので、仕事中にエネルギーが切れないようにする必要があるし、何よりいい気分になれる。料理をしている時だけは無心になれるからだ。  コーヒーメーカーのスイッチを入れる音が、スタートの合図だ。  無駄のない鮮やかな手つきで、どんどん料理の行程が進んでいく。誰に見せるものでもないが、小気味良くて清々しい手つきだ。  キッチンの背後にあるダイニングテーブル上には、手際よく料理されたメニューがずらりと並んだ。  よく裏ごしされたカリフラワーのスープに、ぶ厚くカットされ、ほどよくトーストされた食パン、恐ろしく滑らかなスクランブルエッグ、絶妙な火加減で仕上げられたタラのレモンバターソテー、そこにパプリカのマリネと今が旬のチコリをのせたグリーンサラダがテーブルに彩りを添えた。  実のところ小食タイプの彼としては、まだ朝日が登らないうちからこれだけの量を食べるのがキツい時もあるが、これも仕事の一部と思って食べることにしている。  食事を楽しむというよりは、自分の作ったものの出来を一つずつ確認するように食べ終えると、余ったコーヒーを小さな保温ポットに入れ、それを革製のボディバッグにしまった。  出際に漆黒のチェスターコートを羽織り、ボディバッグに腕を通すと、まだ暗い街に出た。  職場に向かって歩き始めるとすぐ、気だるい声が二つ隣にあるパブ風居酒屋から聞こえてくる。 「チクショウ、もうそんな時間か……」  居酒屋の店主、吉住健朗だ。  彼は店主であるのに、こともあろうかこの寒空の中、店の外に並んでいる席に突っ伏してうたた寝をしていた。  閉店時間が定まっていない彼の店は、時折こうして翌朝になっても夜が続いていることがある。 「もう閉めた方がいいんじゃないの」  聡士がそう返すと、健朗は「そうするわ」と呟きながら、聡士に向かって手で何かを寄越せというジェスチャーをした。  聡士は呆れ顔を浮かべると、ボディバッグからコーヒーの入ったポットを無造作に投げる。 「どうせ店で美味いコーヒー飲めるだろ?」  健朗はそう横柄に言いながら、器用に飛んでくるポットを受け止めた。 「おい、明日は休みだよな? 今晩俺の店に寄れ。その時にポットを返す」  健朗の言い草に、聡士はそれに負けないくらいのぶっきらぼうさで会釈をして、職場への道を急いだ。  背後からは、まだ店でグダグダしている客に「とっととその汚い尻を上げろ!」と怒鳴る健朗のダミ声が聞こえて来る。聡士はクスッと小さく笑った。  聡士が勤めるフュージョン料理レストラン『Sekhmet セクメト』は健朗の店のワンブロック先にある。  エジプトの戦いの女神の名を冠したこのレストランは、近年若手料理人が競うように洒落た店を出している界隈の中で一際目立つ存在だった。  モダンフレンチを基本としているが、北欧やアジアのテイストも上手く取り込み、ストイックだが華のあるディッシュを提供することで人気がある。  出店後僅か1年でミシュランの一つ星を獲得して随分話題になった。  開店3年目で星2に昇格。以降星の数を維持したまま、店は5年目の秋を迎えていた。      聡士は店の裏口の鍵を開けて中に入ると、ロッカールームに荷物を置いた後、早々に開店準備を始めた。  まずはオーブンの火入れ。その後、冷蔵室の室温チェックと残っている食材の確認。それが終わると、調理道具のセッティングを行う。さらに余裕があれば、今日使う食器やグラスを出してきて、汚れや欠けがないかどうかのチェックを行う。  それらはフレンチの厨房の役職でいうところの“アプランティ”つまり“調理人見習い“が行う仕事だったが、スタッフの人数が限られている『セクメト』では、いつも店に一番乗りで出勤する聡士が行っていた。  そうしているうちに、ホールスタッフの弓島果凛が出勤してくる。 「おはようございます! 聡士さん、お待たせしました。仕入れ、行ってきてください」  果凛はそう言って、食器のチェックを聡士から引き継いでくれる。 「任せた」  聡士は一度脱いだコートを羽織り、店を出際「あ、コーヒー余分に淹れておいて」と果凛に声をかけた。  それを聞いた果凛は派手に顔を顰める。 「また吉住さんにコーヒー獲られたんですか?」 「まぁな。じゃ、行ってくる」 「行ってらっしゃい」  聡士は近くに置いてある店の車に乗り込むと、市場に向けて車を走らせた。  市場は今年の秋豊洲に移動したばかりで、まだ少し戸惑いがある。  仲卸のエリアに入る時、毎回のように仕入れ人かどうか聞かれるのが些か面倒に思っている。まだ人員が固定していないのか警備員が毎回変わるし、若い見た目でインテリ風の聡士は観光客と間違われやすい。  だが、一旦仲卸売場のエリアに入ると、方々から見知った店の主人が「おいせさん」と聡士のあだ名を呼んで挨拶をしていく。この5年の間に、聡士の店がミシュランで星を取ったことはもちろん、若いくせに確かな目利きをする聡士に百戦錬磨の店主達も一目置いていた。  購入する店は大体決まっているが、それでもニつ星レストランの仕入れに食い込もうとする店の呼び込みに応じることもある。 「おはようございます」  いつも必ず最初に立ち寄る魚河岸・田宮に入っていくと、七十を越えてもいまだ現役の田宮豊が「やぁ、待っていたよ。注文の品、全て揃えられてる」と満面の笑みで出迎えてくれた。その笑顔を見て、聡士はピンとくる。 「いい素材が揃ってるみたいですね」 「うまく買い付けができた」  既に用意された発泡スチロールの箱の蓋を開け中を覗くと、アカムツやムール貝、今季最後の岩牡蠣など新鮮な魚介の数々が整然と美しく並べられていた。  だが、聡士はその蓋を閉める前に、傍の陳列台に目をやる。 「マツカワカレイだ。え、これ天然物ですか? 凄い。珍しいですね。はしりものにしては状態が良さそうだ」  田宮は細い目を益々細くした。 「相変わらず、目に隙がないね、おいせさんは」 「とかなんとか言って、俺の目につきやすいところに態々置いてくれていたんでしょう?」  田宮はその質問には答えず、ただニコニコと笑った。 「持っていくかい?」 「はい。ぜひ」  旬を先取る“はしりもの“は“先取る“ために魚体が十分に育っていない場合が多いが、そんな中で上物に出会えるのは、とても貴重な縁だ。  仕入れの予定にはないものだったが、聡士は躊躇わず購入する。ただし内心、やや不安な気持ちを覚えながら……。  その後、野菜やフルーツ、乾物、不足している調味料などを次々に仕入れ、店に戻った。  その頃には、3人の若い料理スタッフ達も出勤していた。 「おはようございます、聡士さん」  3人ともやや緊張気味にそう挨拶した。  皆、聡士の顔色を毎朝念入りに確認してくる節がある。  彼ら全員180cmを越える高身長でガタイもしっかりしているから、172cmで服を着ていたら華奢に見える聡士が随分小柄に見えるが、身体から醸し出される威圧感は聡士が一番凄い。 「おはよう。今日は魚介でいい素材が手に入った」  聡士は仕入れてきた箱の蓋を作業台の上で少し透かした。  3人が覗き込む。 「本当だ。このノドグロいいですね」  スーシェフ(副料理長)の金城悠次郎が声を上げる。その隣で主にソースと魚料理を担当している加藤重幸が「わ、凄い!マツカワがある!」と感嘆の声を上げた。 「しかも天然物じゃないですかぁ」 「うん。田宮さんが融通してくれたんだ」 「聡士さん、あのレジェンドから無駄に可愛がられてますからねぇ」 「“無駄に”は余計だろ」 「はい。すみません」 「でも、メニューにない素材を買ってきて大丈夫ですか?」  一番下っ端で調理見習いの宇高徹が不安げな声でそう言った。  一同その瞬間沈黙し、互いに顔を見合わせる。  その沈黙は、聡士の「俺が何とかする」という一声で解散となった。  聡士は宇高徹に残りの食材を運び込むように指示出しし、自分はロッカールームに向かった。着ているものを脱ぎ、仕事着に着替える。  しかし、彼が手にしたのは、コックコートではなかった。  ノリの効いた白いシャツに漆黒のタイトなベスト、太めに締めるグレイのネクタイ。これまた黒のスラックスの上に丈の長いロングエプロンを巻き、さらりとした髪が乱れ落ちないように整髪料で固めると、聡士の戦闘服が完成する。  実のところ聡士の仕事は、二つ星レストラン『セクメト』のオーナーシェフではなく、ホール全般を取り仕切る給仕長“メートル・ドテル“だった。
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