4-2

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 桜の花が咲く手前の時期の訪れは、今年は遅く感じた。けれど、あっという間でもあった。  引き払ったアパートを見上げたと同時に、簡素なものだけを詰め込んだリュックサックを肩に引っ掛ける。まだ肌寒くて、ミツルが昔着ていたというカーキのモッズコートを羽織っている。リュックサックを背負い直したと同時に、少しだけ肩の辺りがずれた。綿の素材が重すぎず軽すぎず、ちょうど良かった。  高校は、辞めた。ミツルだけでなく、クラスメイトの周防も、恋人の里帆も、律を引き止めた。ミツルは学費も今まで住んでいたアパートの家賃だって支払うと言って聞かなかったが、律の方から拒否した。ミツルとは、他人でいたかったのだ。金銭の繋がりができると、他人であるのに境界線が曖昧になってしまいそうで、気兼ねもしたし単純に嫌だった。あのひととは、決して家族ではない、共有し合える他人でありたかった。  わかったわよ、と渋々了承したミツルは、代わりにモッズコートと、就職先を紹介してくれた。ミツルの古くからの知人が、建設業を営んでいるらしい。それってカタギのひと? とおずおず問うと、びみょーね、と返しつつも笑んでいたので、まあまあそれなりにすべてが不正解ではなさそうだ。もうなんでもいいや、なんとかなる、そう思えるのはおそらく、父親譲りだ。流れていくひとだからね、母も確かに、そう言った。俺も流れるひとなのかも、と片隅に思う。  律が決断した理由に、その建設会社は会社の寮を持っていることがひとつあった。住む場所には困らない。アパートを一棟、寮として借り上げているらしい。未成年である自分の代わりに、ミツルが部屋の契約者と保証人になってくれ、社長も知人であるなら殊更、断る理由はなかった。アパートの家賃も安い上に、家電はすべて揃っている。願ったり叶ったりだ。そこに今日、引っ越しをする。明日からは、仕事をする。  ミツルはこの日、見送りには来なかった。近くに住まないとはいえ、遠くに行くわけじゃない。電車でたかだか三十分だ。離れ離れになるわけでもない。 「あたしは見送りに行かないからね」 「うん」 「もう泣きたくないもの」 「うん」  律、頼むからあんたは先にいかないで。最後そう言って、ミツルは通話を切ってしまった。見上げたアパートから出て行く、十分前の話だった。  死なねえよ、バカじゃん? 全身で伝えたいのに、言葉にはしなかった。からから夏色みたいに笑うひとが、先に逝ってしまったからだ。  駅までの道のりを歩きながら、ぽつりぽつりと膨らむ、桜の蕾を眺める。桜色や、ちょっとくすんだ灰桜、少し濃いめの撫子色もあった。蕾の色はじっくり見るとさまざまで、広い歩道をすれ違う学生たちのように色緩やかだった。春休みが始まったばかりだからか、きゃらきゃらした浮かれた声が、生き生きしている。  この駅は、人通りは少なくない。行き交うひとは多い方だ。多少古びていても、老若男女いろんなひとたちが通り過ぎる。足音が律の耳の側を過ぎて行くのに、どこか膜が張ったように遠かった。開いたドアからは、蒼介は出てこない。それはそうだ。この駅は、いつも待ち合わせている駅じゃない。いや違う、それ以前にもう、約束さえ取り付けていない。そんな間柄でもなくなった。いたはずの親友は、早く忘れたいひとになってしまった。  電車に乗り、空いているシートに座る。ドアが閉まります、アナウンスが終わり、ドアが閉まり、電車は動き出す。緩慢な揺れが、足元から響いた。窓からは緩やかな陽が射していて、自然と目を眇める。  律はスマホを取り出し、もう随分と見ていない名前を眺めた。何ヶ月だろう、もう何ヶ月たっただろう。一、ニ、三、と順に数えると、九ヶ月だった。たった九ヶ月なのに、もう何年も会っていないようだ。けれどラインというアプリは、その短い文章さえ記録している。がっこー終わった? 連絡ちょーだい。律が送った、最後の一文。  親指をゆっくり動かし、電車に揺れながら、何度も何度も書き直した。出来上がった文章を読み直し、読み直して読み直して、送信ボタンを押した。電源を切り、ポケットにしまって目を閉じる。スマホは解約しよう。新しい番号に変え、連絡は取れないようにする。そう決めた。  蒼介。  元気ですか? 俺は元気です。  急ですが、俺はアパートを引っ越しました。どこへ行くのか、それは言いたくありません。  俺はおまえが、憎くて憎くて仕方ありません。あの日、俺をひとりにしたおまえが、憎たらしくてムカついて、仕方ありません。どうしていてくれなかったんですか? 一緒に泣いてくれなかったんですか? そこにいてくれなかったんですか?  おまえは俺に、瞼をなかなか閉じられなくさせました。おまえの目とか体とか喋ったこととか楽しかったこととか、思い出が全部、目を閉じて眠ろうとすると蘇ってきます。もう嫌です。  おまえは俺に、さみしいという感情を植え付けました。ひとりってさみしいんだって、おまえのせいで知らしめらた気分です。  知らなかったものを無責任によこしてきたことを、この先も許さないと思います。  死ね、とおまえはノートに書いていましたね。死にましたよ。母が。  さようなら。  律。 「律?」  蒼介の声を聞いたのは、それから十年後のことだった。
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