5-1

1/1

123人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

5-1

 よくあるチェーン店の居酒屋だった。  中退した高校で知り合って、今もまだ付き合いのある周防と飲んでいる最中だった。雑音だらけの店内で、流行りの曲が有線から流れていて、周防と近況報告をしていた最中に、はたしてそいつはやってきた。 「律?」  背後からかけられた声には聞き覚えがあり、正面を向いたままビールジョッキを持っていた手は固まる。接着剤か何かで、持ち手に掌が張りついたか。奇怪な想像が過ぎるほど、状況と現状を理解できないでいる。ただわかるのは、これまで律を「律」と呼ぶ他人は、ミツルともうひとりしか知らないし、この店選ぶんじゃなかった違う店にすればよかった、と延々と考えている辺り、既に状況は把握できているに違いない。  振り返ると、多少癖のある柔らかそうな髪の毛をまとう男性がひとり、律を見下ろしていた。耳が出るくらいの長さで、清潔感を全面に押し出して見えるのが一層げんなりする。十年前より当然大人びた表情になっていて、けれどまばたきしたときに含む瞳の水分量は変わらない。店の照明を浴び、一層うるっとして見える。あ、と口を開ける。すうっと入ってきた空気がやけに生温くて、梅雨のようだと思った。コンクリートに埋まったまま眠っていたはずの植物が、にょろにょろ顔を現してくる。そ、と出た声が震えていた。ごまかすように一度咳払いをして、もう一度喉を鳴らした。 「蒼介じゃん、久しぶり」  答え方は間違っていなかったか、つくろった笑顔は堅苦しくないか、早くどっか行け笑っててやるから。消えろ、いいから早く消えろ早く。念じながら表情を作っているのに、彼はおよそ、嫌悪などまるで感じ取ってはいないようだった。目尻を下げ、久しぶり、と笑んだ。背骨の中から背筋にかけて、ぶわっと悪寒が走る。尾骶骨の辺りが、むずむずして仕方ない。 「え、誰? 佐伯の友達?」  何も知らない周防は蒼介を見上げ、彼に興味津々だった。違うただ顔知ってるだけ、と返せたらどれだけいいだろうか。返答できず、また何かをごまかすようにビールジョッキに口をつける。持ち手がまだ、ジョッキに張りついていたのをいいことに。 「律とは同中で、同級だったんです。すごい久し振り。元気だった?」  うまく場を繋げるかのように代わりに答えた彼に律は便乗して、そうそう、と目を伏せた。自然な仕草で肩に置かれた蒼介の手に、ぞっとする。彼を見上げると、にっと笑んだ表情に、陰がかかって見える。 「元気元気。おまえは?」  死ね、とおまえはノートに書いていましたね。 「元気、だったよ」  死にましたよ。母が。 「ほんと久々すぎて、蒼介から声かけられると思ってなかったから、びっくりした」  さようなら。  十年前、律が送ったラインの一文。それを未だに、一字一句覚えていた。あの後すぐ、スマホの番号を変えてしまって、あれが既読になったかも律は知らない。返信があったかどうかも、律には知る由もなかった。この十年間、結局忘れることなく覚えていて、普段は打ち忘れていても、ぽつんと灯りが点くようにあの一文が浮かぶときがあった。思い掛けない場所でだったり、食事中出し抜けに湧いてきたり、歩いていて計らず生じることも少なからずあった。  その都度、胃袋の中が重苦しい気配で満ちた。鬱屈とか、罪悪感とか、後悔とか、あるいは似て非なる何かとか。得体の知れないものがふつりふつりと、緩慢に忍び寄る。 「ちょうど会社の飲み会でさ、なんか見覚えのあるなって思ったら律で、すげえーって勝手に声かけてた。ごめんね、楽しんでる最中なのに」  律が持ち歩いている感情などすべて取っ払うように、はたして明るく蒼介は言う。拍子抜けして、彼を見上げてまばたきを何度かした。もしかしてもう忘れてる? 俺が忘れたかったみたいに。と、都合のいい解釈が降って湧いた。  すると、律の前に座っていた周防が否定するように手を振る。 「ぜんっぜん! オレらもくだらねえ話してただけだし。良かったら一緒に飲みません?」  周防の気軽な性格が、今はひどく憎らしい。なんて簡単に誘い、席まで用意するみたいに、椅子を引っ張った。あ、佐伯の隣がいいよな? などと、すでに座らせるつもりでいる。口を噤んだままでいると、蒼介のほうから遠慮する。職場のひとたちがいるので、と断った。ああそっか、ですよね、急にすみません、と周防も謝罪をする。早く終われ早く帰れ、と繰り返しつつ、彼らの会話はとても気さくで、伺っているこちらのほうがばつが悪くなった。  じゃあ、と蒼介が会釈し、踵を返しかけたところで、彼は立ち止まる。 「律」  ん? と答えながら、急激に心臓の音が早くなる。おまえあんなライン寄越しやがって、ただの八つ当たりだろ? ふざけんなよてめえ、彼から突き刺されるだろうと予測でき得る言葉を順に、勝手に頭の中に並べていってしまう。 「スマホの番号、変えた?」 「あ、うん」  ど、ど、ど、と早まる心臓が、有線の音楽と混ざり合う。流行りの歌、けれど律は知らない。ただ聴いたことはある。女性シンガーのチューリップのような声、早口の歌詞、ど、ど、ど、ど、蒼介がぱくりと開ける唇を見上げながら、周囲の音を必死に嗅いだ。生おかわりください、少々お待ちください、揚げ出しとぉー、出汁巻きとぉー、刺身の盛り合わせかな、連なる言葉たちが重なり合ったおかげで、律の心臓の音は、律にしか聞こえない。 「久々に会ったんだし、連絡先交換しよ?」  また遊ぼうよ。にこりと笑んだ先から、甘い匂いがした。むわっと広がり、すんすんと嗅いだ。そのままふらりと近寄って行きそうで、なぜだか足元から急に寒気が迫ってくる。爪先が一気に冷えていく感覚が不意に起こり、怖くなった。  スマホを取り出し、互いに番号を伝え合った。オレもいい? と気楽に言えてしまう周防が、やはり憎たらしい。小さく舌打ちをすると、なんだよなになに? とやかましかった。蒼介はやはり、甘く香り立つような笑みを浮かべていた。匂いだけが目立つ、何かの植物のような。  蒼介は自分の席に戻り、それを律は目で追って逸らし、また周防に向き直した。その後の会話には、まったく身が入らなかった。  店を出て周防と別れ、駅に向かっている最中に着信が鳴る。スマホを取り出すと、ついさっき連絡先を交換した蒼介の番号だった。芹澤蒼介、と画面にはゴシック体で書かれていて、立ち止まる。左右を見渡し、通り過ぎるひとたちを一通り眺め、その場に合った会話を聞き流して、息を吐いてから通話ボタンを押す。 「……もしもし」 「あ、律?」 「うん」 「良かった、出てくれて」  そりゃ出るよ、ぼそりと呟くと、彼は小さく笑った。鼻息が多少、スピーカーにかかる。 「今日おれ、本当にびっくりした」 「うん、俺も」  再び歩き出し、脇道に入り、近道をする。植樹が多いランニングロードに、この時間の人通りは少ない。ときおり、律の横を過ぎていく程度だ。暗闇の中にぽつんと佇むベンチに座り、律は空を見上げた。春の初めは空が澄んでいて、街灯の灯りの先に僅かばかり星が見える。ひとつ、ふたつ、その程度だけれど。 「ずっと、律に会いたかった」 「……え?」  どきりとした。恨み言を言いたかったからか、子どもの憂さ晴らしを責めたかったからか。  死にましたよ。母が。  あんなことは、蒼介に言うべきではなかったのだ。思い返しても異質だったし責任転嫁もいいところで、後悔や罪悪感や、言いようのない無明の感情が襲った。けれど、それに伴う彼への憎しみで感情を亡き者にしようとした。俺は悪くない、と。 「怒ってんの? 本当はムカついてんだろ、俺に」 「え? なんで?」 「なんでって……」 「そんなんじゃなくて、律が辛かったときに、一緒にいたかった」  いれなくてごめん。かすれるほど虚いのある声に、律は息を飲んだ。なんで? どうして。おまえが謝ることじゃないじゃん、放らなければならない言葉は、ぬるっとした春の風に攫われる。口を開くだけで声にはならず、ただ息となって漏れるだけだった。 「蒼介」  うん、と小さく彼は言う。 「今度飲もうぜ。あー、いつにする? 俺はいつでもいいし、おまえに合わせるよ」  うん、そう答えた蒼介から、ここにはいないはずなのに匂いがする。甘い匂い。咲いたばかりの桜の花弁、少し癖のあるそんな匂いが、ざわっと散ったようだった。ほど温い風に舞って、ほのかにくすぐる香りが鼻を過ぎった。  なぜだろう、側を通った野良猫が逃げる。足早に人が去る。本当は、傍らにあるのが、異臭みたいに。    
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!

123人が本棚に入れています
本棚に追加