5-2

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「待ち合わせ?」 「うん、蒼介と。ミツルさん、覚えてない?」  dreamingはこの日もぼちぼち客入りがあり、平日ながらも店内の流れはそれなりに騒々しい。ブルーノートが好きなミツルは、会話が通るぎりぎりの音量で、今日も耳障りのいいジャズをかけていた。何枚もの洒落たデザインの中古レコードが、店内の手作りの棚に収まっている。毎日の気分で、その日に流すレコードを決めているらしい。昔まだ、こっちに引っ越して間もないころ、彼の面容と流れている音楽がどうしても交わらなくて戸惑ったが、今はもう、ミツルが黄色の瞼ではなく真っ青で、掛かる音楽がブルーノート以外だったらぎょっとしてしまいそうだ。ときにはブルーを基調としたメイクも、グリーンを際立たせる日も当然あるのだけれど、ミツルには黄色が一番似合っている。そして、真っ黒な髪の毛にエスニックなバンダナ。  彼女がそれらすべてを覆したのを、律は母の葬儀以外では見たことがなかった。 「蒼介って、あんたの中学のころの友達だったっけ?」 「そうそう」  この間ひっさびさに会ってさ、と続けると彼は、はいはい覚えてるわよ、と口角を引き上げる。 「あー、あの子ね。かわいー顔してる、へえー」  ミツルは律から目を逸らし、オーダーされたらしきカクテルを作っていた。律はカクテルは苦手で、ここにくるとミツルが勧める焼酎や日本酒、気分でワインを飲んでいる。ごく稀にカクテルも飲んでみるのだけれど、ミツルが作るものはほんの少し癖が強いからか、気分が乗ったとき以外は飲まない。確か王道のモスコミュールだったか、暑い日で、スカッとしたくて、それを選んだ。味つよっ! と思わず口に出すと、あたしの性格が出てんのよね、なんてミツルは笑っていた。けれど、その味を好む客は大勢いる。現に、繁盛している。  細長いシャンパングラスには、暗い照明に当てられた濃い赤、燕脂に近い色の液体が、ゆっくりと注がれた。上部にはしゅわっとした気泡がぷちぷちと佇んでいて、じっと見ていると、次第に小さく消える。そしてまた、弾かれた拍子に生まれる。  キールロワイヤル、彼が言うカクテルの名前はいつも、秘事が詰まった暗号のように聞こえる。 「律、あんた基本的に無神経だからね、気をつけなさいよ?」 「は? いきなりなに」 「だからさあ、だいちゃんに似たとこあんの。出たとこ勝負っていうか、なるようになるっていう。あんたの常識が他人の非常識ってこともあんの、覚えときなさい」  彼の言う「だいちゃん」とは、律の父親のことだ。おそらくもう、会うことはないだろう父。それでも律は、父を憎むことも嫌悪することもなかった。母ちゃん死んじゃったから父ちゃんは元気でいてね、とどこにいるかも定かではない場所へ、時折思う程度の気安い感情しか浮かばない。気軽なのは、無関心だからだろうか。この辺りが、律の常識が他人には通用しないところなのかもしれない。 「説教くせえなあ」 「ついでに言うと、他人を理解しようなんて考えないことね。自分の枠に落とし込むなんて、浅ましいにもほどがあるわ。特にあんたみたいに、なまじ中途半端に優しいタイプが!」 「はいはい、しょーち」  これでモテるんだから腹立つわー、と最後には愚痴を溢されたので、律はもう聞こえない振りをする。  高校を中退して十年、律は最初の就職先で日雇い労働者として働き、今もフリーで肉体労働をこなす日々だった。ミツルから紹介された会社で一から仕事を習い、そこの宇崎社長は、もはや律の師匠のような存在だった。仕事も遊びも彼から教わり、二十歳を過ぎればよく連れ回された。派手に遊ぶくせに真面目な人柄が印象的だったのは、酒も煙草も律が二十歳を過ぎるまでは彼が徹底して禁止していたからかもしれない。仕事の仕方は繊細で、豪快な腕と屈強な体を持ちながら捌き方は一流で、たくさんの資格を彼は持っていた。  建設機械施工技士、土木施工管理技士、建築施工管理技士、電気工事施工管理技士、管工事施工管理技士、給水装置工事主任技術者、下水道排水設備工事責任技術者。おそらく、もっとあるだろう。宇崎社長に律は、大層可愛がられた。建設業務を大胆に仕込まれ、覚えていく過程でこっぴどく叱られたことも数え切れないほどあり、ひどく面倒見のいい彼を人の良さを目の当たりにしてきた。正社員の打診は何度も受けた。彼の仕事ぶりも遊び方も律は好きだったし、これ以上ない申し出ではあったけれど、律は今の環境が心地良かった。宇崎社長や他の繋がりから仕事を受け、出向く。流れるように過ぎる日々の無責任な居心地が、律の性に合っていた。  この辺りも、父譲りなのだろうか。女性に対しても、おそらく誠実とは言い難い。だいちゃんによく似てる、ミツルは口癖のように律に言う。 「律、お待たせ」  肩に手を置かれ、急な触れ方に驚いて振り返る。あまりにその手が、ぬるりと湿っているようで、ひゅっと息を吸い込んだ。 「え、あ、蒼介か」 「遅くなってごめん」  律は首を振る。それが合図になったのか、蒼介は隣のスツールに腰を掛けた。ビールください、彼は前にいたミツルに声を掛ける。ほんの一秒程度、二人はじっと見据え合った。けれどすぐにミツルは、ちょっと待っててね、と笑った。 「今日忙しくて」  はあ、と蒼介は息を吐いた。お待たせしました、ミツルはすぐにコースターの上にビールグラスを置き、背を向ける。ミツルの後ろ姿に律は、適当に何か食べるものを作って欲しいと頼む。彼女はまた、横顔だけで笑んで、キッチンへ向かった。 「そういや、おまえ今なにやってんの?」 「区役所の総務課にいて、今は健康福祉の担当なんだけど」  そう言うと、続けて彼は仕事の話をし始めた。民生委員や児童委員への支援や災害援護、斎場や火葬場の運営管理、改葬の許可などを行っているらしい。半分以上仕事内容の話はわからなかったが、火葬場と聞いて母のことを思い出した。空に昇る煙を背後に、蒼介がこの場にいてくれないことを恨んだこと。こんなにも胸が引き裂かれれそうなのは彼のせいだと、紺鼠色のコンクリートに咲かない花を恨めしく思った。  あまりにもご都合主義の責任転嫁だ。嫌になって、律はビールグラスを手に取った。飲むともう、生温くなっている。新しく、すかっとする飲み物が欲しくなる。  互いに、あのころの話は避けるように話題には挙げなかった。少なくとも、律はそうだった。蒼介には、今の仕事の話、今までのことをかいつまんで伝え、気づいたころには店を出ていた。  家で飲まない? という蒼介の誘いにも乗り、コンビニに寄った。電車に数駅乗ったものの、何駅乗ったのか、これはどこの駅かも律にはわからなくなる。酩酊しているせいもあるのかもしれない。けれど違う気もした。もうずっと、長い時間蒼介から香る甘いような、癖のあるような、すんすんと自ら寄って行ってしまいそうになる匂いに当てられていて、なんだか体が覚束なくなる。  蒼介は品のいいマンションに住んでいて、広くて、律が住むウィークリーマンションとは大違いだ。リビングに入ると、以前と変わらず、部屋には一面の本棚が並んでいた。突っ立ったまま、それを見る。あいうえお順に並んでいて、思わず笑ってしまう。 「何?」 「あーいや、おまえやっぱり作家をあいうえお順に並べてんだな」  本棚を指でするりとなぞっていると、蒼介がキッチンから戻ってくる。先ほどコンビニで買ったつまみ類と、アルコール類を持って。ローテーブルに並べたのを合図に、律も座った。彼も隣に座り、その距離の近さに一瞬、ほんの少し身じろいだ。  憎い憎い死んじまえ、高校生のときに見た蒼介のノートの文字が、火花のように飛び散って体が強張る。けれどまた、出し抜けに匂う。ふわり、ではなく、湿度を持った、癖のある甘い匂い。静かに見つからないように蒼介の横顔を覗くと、瞳にはたくさんの水が埋まっていた。そこからこんな風に、舐めたらおいしそうな匂いがするのかな。思い掛けない自分の思考に、ぎょっとする。 「蒼介、なんかつけてる?」 「なんかって?」 「香水とか、そういうの」 「つけてないよ、なんで?」 「いや、なんだろ、なんかいい匂いする」  ふふ、だか、はは、だか、蒼介はひどく柔く笑んだ。釣られて笑ってしまったとき急激に眠気が襲って、瞼が重くなる。  寝ていいよ、おまえザルなの? 強すぎ、そんな言葉を交わした気がする。後はよく覚えていない。ただ、律、律、と彼が呼ぶ声は、やはりどうしても、誰とも違った。 「おはよう」  目が覚めたらソファで、体を起こすともう、蒼介はスーツを着ていた。あれ? なんて今の状況を理解できず、胃もたれと体の気怠さでようやく、二日酔いということだけはわかった。 「律、今日仕事は?」 「えーっと、あー、休み」  だったと思う、確か。そう確か今日は社長からも他の業者からも依頼はなかった。だから休みだ。今のところは。 「じゃあゆっくりしてなよ。おれもう行くから、適当にしてて」  鍵置いとく、と早口に言われ、慌ててソファから抜け出した。おえ、と喉の辺りが気持ち悪い。 「ちょ、ちょっと待った! 置いとかれても鍵どうすんの? おまえどうすんだよ」 「予備あるし、また返してくれたらいいし、別に今日もいてくれたっていいし」  咄嗟に近づいていた足が止まる。背骨の付け根が、騒々しく騒ぎ出す。ざわ、ざわざわざわ、一気に蔦が這う。絡め取られる。体が植物に捕まる。いや、むしろ自分から向かったのでは? ずり、と素足を後ろに引き摺るものの、本当に後退ったかはわからない。 「じゃあね、行ってきます」  蒼介は、ひどく朗らかに、かつ爽やかに声を鳴らしてリビングから出た。あまりにからからと甘くて、煌びやかで、昨夜ミツルが律に見せたカクテルを思い出した。キールロワイヤル。しゅわしゅわの炭酸が弾けて、新たに生まれて、甘めの、胸焼けしそうな。  口元を抑え、おえ、とえずいた。気持ち悪い、とただ思う。  
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