5-3

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5-3

 律は特別、ひとにも物にも執着したことがなかった。反射神経だけで生きてきたような律にとって、よほど縁遠い言葉だった。  父が去ったときも、母がこの世から消えたときも、それが元で生まれる鬱屈は何一つなかった。ひとりきりの寂しさを知らしめたのは誰でもない、蒼介だ。丸裸で歩かされるのを余儀なくされているようで、まるで自分の理論が通用しなかった。憎かった。腹立たしかった。それの前では、罪悪感から叱責されているように居心地が悪く、太刀打ちできなかった。ふと湧いて出て、消えたと思っても埋まっている。根だけが土の底に、残っている。  二日酔いのせいで起き上がることが億劫で、結局午前中はソファの上で丸まったままでいた。昨夜掛けられたらしき布団の温もりがあまりにも心地良かったし、窓辺から入る細い筋のような光が、一層睡魔を引き寄せた。胃袋が活動してきた正午過ぎにようやく、ソファから抜け出した。キッチンカウンターに置いてある鍵が、カーテンを開けた日差しに当たって煌びやかに光っている。それを手に持ち、外に出た。  近くのカフェで軽食を胃に収め、自宅アパートまで戻った。歯を磨いてからシャワーを浴び、さっぱりしたところでTシャツとスウェットに着替えた。脱いだ服は洗濯機に入れ、もう回してしまう。六畳の狭いリビングに、パイプベッド、小さなテーブル、それくらいしか置いていない。フローリングに座り、頭だけをベッドに預ける。目を閉じると、また眠ってしまいそうだ。緩やかな日差しに当てられ、うつらうつらしてしまう。  スマホの新着通知が着た。確認するとラインで、相手は最近よく遊ぶ女性だった。佐伯くん、ひまー? と一言あったので、暇だよ、アパートにいる、とすぐに返信した。性欲が、むくむく顔を出した。  律の交友関係は、おとなしいほうではないと思う。かといって派手でもない。適度に遊べそうな相手を選んでいる。相手もまた、律にその面影を見つけていて、案外こちらが選ばれている立場なのかもしれない。遊ばれているのは律のほうかもしれないが、本心は聞いたことがないから知らない。ただ、女性は自分より大方賢いのだ。公転するやり方を、自身でよく知っているように思う。そこに乗っかるのは、得意なほうだった。だから別に、どちらでもいい。  女性は、柔らかくて暖かくて、触るとふわふわしていい匂いがした。蒼介とは違う、癖のない霞草のような匂いだった。ただひとつだけ、律がどうしても拒絶していることがある。「律」とは呼ばせないこと。ほかの人が呼ぶ「律」は、何かが違う。違和感があって、それだけは苦手だった。  蒼介に鍵を返したのは結局、それから三日後になった。  ひまー? と聞いてきた女性がアパートに来て、借りてきたという映画を観て、狙っていたのか性描写があり、観終わらないうちに行為を始めて、もうエンドロールも随分前に終わって一眠りしていて起きたところでラインが届いていたことに気づいた。  律どこ?  律いまどこにいんの?  おーい。  ねえ律。  律、どこ?  と立て続けにメッセージが着ていて、また背筋が粟立った。頭の中で反射的に警鐘が鳴り、慌ててスマホをテーブルに置いた。ど、ど、ど、と心臓が一気に跳ね、呼吸を整え、息をゆっくり吐いてから返信する。  別にどこでもいいじゃん家だよ。  既読にはなれど返事はなかった。鍵はちゃんと返す、昨日はありがとう、手短にラインを打ち終え、ホームボタンを押した。 「佐伯くん、さっきのだれー?」  背中に、柔らかい皮膚が当たる。肩から覗き込まれていたらしい。細っこい腕が、首に巻きついていてさらさらしていた。 「あー、ともだち」  だと思う。と口ごもると彼女は、ふふ、と笑った。 「へえ、こわ……」 「こわい?」  子どものような口調になってしまう。 「怖いじゃん、何回もどこにいんのか聞いてくんの」 「いやいや、ひとのスマホ覗き込んでくるおまえのほうが怖いっしょ」  くすくす笑いながら、もう一度覆い被さった。どこ? と蒼介から尋ねられてぞっとしたくせに、他者から指摘されて苛ついた。蒼介なんだからいいじゃん、と言いたくなった。おまえに蒼介のなにがわかる。  変なの、変だろ。だからもう、目の前にある柔らかい霞草に没頭する振りをした。  蒼介のマンションの前に立ち、何度か深呼吸してからインターホンを鳴らした。もし出てこなければ、ポストに入れておいて連絡する、そう決めていた。あえて、彼には連絡することなくここに来ている。忙しくて、とか、近くを通ったついでに、とか、最もらしい理由を頭の中に置いた。そうでなければ、今まで自分が不得手としていた感情ばかりが並んでしまいそうで恐ろしかった。  憎い、とか、面倒、とか、気持ち悪い、とか、嫌悪、とか。その真逆のことだけを常に考えて生きていたいのに、あの男といるとかき乱される。ラインのメッセージを読んで、無視していたものが蘇った。あの男は危険だ、自分の扱えない感情を剥き出しにして逆撫でる。手に負えない。嫌だ。会いたくない。忘れたいのに思い出す。触れたこと、あれを思い出した自慰が驚くほど気持ち良かったこと、詰られたこと、感情を剥き出しにしたラインを送ったこと、どれもこれも忘れたい。  何より、他者からあの男を軽視され、理屈なく苛立ったことが証拠として残ったこと。会いたくない。あれにはもう、会いたくない。 「律?」  開いた玄関からひょっこり顔を出してきた蒼介に、ぎょっとする。その表情に驚いたのか、彼はまばたきをした。 「急にごめん。鍵、返しにきた」 「そっか、ありがとう。上がりなよ」  嫌だ、と足が竦む。一歩踏み出したくなくて、その場に立ち尽くした。どうした? と聞かれ、首を振る。帰る帰るすぐに帰る、頭の中で念じ、ようやく足を踏み入れた。  蒼介は、その場で鍵を受け取らなかった。リビングに招き入れ、なんか飲む? なんて調子良く聞いてくる。口ごもっていると、こわ、と言ったふわふわの霞草を思い出して、また苛ついた。 「ビール飲む? ワインもあるよ、おいしいチーズがあってさ」 「蒼介」 「焼酎がいい? 日本酒もあるけど」  帰る帰る、すぐに帰る。 「蒼介!」 「な、に。びっくりすんじゃん」  キッチンにいる彼に背を向けたまま声を荒げると、背後から急速におかしな匂いが迫りくる。振り返ると、咳払いをしたくなるほど立ち込めた。もう一度鼻で息を吸うと、何も匂わない。なのになぜだか、激臭が一瞬、真横を過ぎる。えずきたくて、手の甲で口を覆う。蒼介は未だに、ぽつりとキッチンに佇んでいた。その目には、ゆらゆらと水が漂っている。脅威的な植物が、瞳の中からずりずりと頭をもたげているようだ。  こわい、この男がこわい。  誤魔化すようにして、ごほ、と喉を鳴らした。足早に去ろうと、キッチンカウンターに鍵を置く。 「鍵、ここに置いとく。遅くなってごめん。じゃあ」  すり抜けかけたところで、騒音が鳴った。反射的にそちらを見ると、フローリングに割れたグラスが散らばっている。 「おい、おまえ大丈夫⁈」  グラスは二つ用意されていて、一つが床に落ちていた。蒼介は黙ったまま、今度はもう一つのグラスを手に取り、それを思い切りフローリングに叩きつける。近いのに遠くの辺りで、ガラスの割れる大きな音がした。鼓膜にべっとり張りついて、膜が覆うように耳鳴りがする。足の裏を動かしたところで、ぴりっと熱くなる。切った、とすぐにわかった。じわりと疼き、かゆいのか痛いのか、どちらとも言えないものが伝う。 「蒼介、おまえ、なにやって……」 「あーあ、もう……」  蒼介? と見下ろすと、彼は俯いていた顔を上げた。ねめつけられ、う、と口を塞ぐ。鼻も塞ぎたくなる。おえ、と胃液ごと全部吐き出したくなる。なんだこの匂い、たじろぐなんてものではなく、早く立ち去りたい。湿地帯をまとう湿度と熱気が肌に絡まる。けれど呼吸をすると、なんともないのだ。異臭が消えた。室内はからりと渇いている。 「あーあ、あーあ、あーあ!」 「蒼介……?」 「なあ、なあ、なあってば律!」  割れたグラスなどお構いなしに、がしゃがしゃ音を鳴らして近寄る蒼介の足元を見下ろした。おい、と声を掛けるのに聞きやしない。彼は律の胸ぐらを掴み、壁際まで追い詰める。背中が、真っ白なクロスにぶち当たった。いて、と言ってしまったけれどそれよりも、足の裏を引きずってついた赤色のほうが気になった。律の血だけなのか、あるいは割れたグラスを無闇に踏みつけた蒼介のものか、わからない。 「律は女がいいんだろ⁈ この間だって女と寝てたんだろ⁈ おれが女だったら良かった! 女だったら良かったのに! おれが女だったらめちゃくちゃにぶち込んでくれたって何してくれたっていいのに!」  あーあーあーもうやだ! 嫌だ! 律は! 律が! 律はいっつもそう!  至近距離で叫ばれ、耳を塞ぎたいのに手が動かない。胸ぐらを掴まれている手を離したいのに、指の先が硬直している。 「律! 律律律! すげえ嫌い! 律が嫌い! 憎ったらしい! おまえが! おまえのせいで!」  引き裂くような声がつんざき、最後叫び声を上げたかと思うと、急に静かになる。蒼介の解けた指先が、ずるずると落ちていく。律のカットソーを伝って、デニムの生地を這って、彼はその場で蹲る。う、う、と嗚咽だかうめきだかわからない声を上げ、律の足元に丸まった。  女だったら良かった、女が良かった、律が、律に、りつのせい。  喉を引き裂いて底から生まれてくるような声をもらし、蒼介は泣いた。 「俺だって嫌いだよ」  蒼介は顔を上げる。水浸し、大雨洪水、瞳の中がびしゃびしゃに濡れて、飲まれそうになる。 「俺をひとりにした、おまえが嫌い」  嫌いだ、気持ち悪い、女だったら良かったってなんだそれ、憎たらしい、変な匂い、ずぶ濡れ、転々と床が赤い、嫌なものばかりが目につく。なのに律の手は、蒼介の背をさすった。ゆっくり、上下に、蒼介の嗚咽がおさまるまでさすっていた。  
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