128人が本棚に入れています
本棚に追加
6-1
そろそろ休憩するか、宇崎社長に言われ、返事をする。この日は護岸工事の作業をしていて、持っていた土嚢袋を下ろした。ヘルメットから少しはみ出た額を掻きながら、作業場から離れる。ヘルメットを外すと、今度は汗を搔いた頭皮が痒くて乱暴に頭をかきむしる。
日差しの強い日だった。作業員は長袖長ズボンが義務付けられているが、段々と辛い季節に差し掛かってきた。あち、と声を漏らすと、もう座っていた宇崎社長からペットボトルを差し出された。ありがとうございます、と言って受け取り、律も腰を下ろした。
「社長、とうぶんの間、俺のシフト詰めてもらってもいいですか?」
「おう、いいけどなんか入り用か?」
女にでも貢いでんのか、彼はくつくつと笑いながら、ペットボトルのミネラルウォーターをぞんざいな仕草で飲み込んだ。口を拭う格好まで、乱雑だった。
「そんなんなら全然いいんすけどねー」
「はは、いいのかよ」
いい、それならまったく問題はない。貢ぐなんて要は、自分が望んでする行為じゃないか。後から後悔したところで、あんなこともあったね勉強になりました、で済ませられる。ただ今回は、そうもいかない。
「今あんま、暇作りたくなくて」
「働き過ぎも毒だぞ」
「そうなんすけどねー」
俺だって働かなくて済むならそっちのほうが断然いい、と当然律も思うのだけれど、ぼんやり立ち尽くすだけで考え込みそうだし、アパートにいるのも嫌だ。あの居場所が、バレていないだけでも救いだった。はたして、もう気づかれているかもしれない。あの男なら、計り知れない。はあー、と長い溜息を吐くと、吐き出すように笑われる。
「まあいいや。佐伯おまえ、優しさはときに残酷だかんな。覚えとけよ?」
宇崎社長は、むき出しになった律の頭をひと撫でして立ち上がり、煙草吸ってくるわー、と離れてしまった。彼は、ミツルと似たようなことを言う。なんだったか、確か、他人を理解しようとしないこと、自分の枠に落とし込むなんて浅ましい、だったか。言い得て妙なのだけれど、あれには優しさも理解も通用しない気がしてならない。逃げるが勝ち、という言葉があるように、あの男など忘れたようにどこかへ逃げられやしないか。
作業着のポケットに入れていたスマホが震える。どきりとして体が一瞬強張った。取り出して、息を吐いた。相手は誰だか見当はついていたのだが、苛立ってしょうがない。
律、仕事中?
そうだよ仕事だよ死ね!
返信を打って、送信しないまま放置して、しばらく眺めて消去した。無視無視無視、そう決めて、ポケットにスマホを戻した。靴底をずらすと、足の裏がぴりっと痛んだ。二日前の怪我は、痛いのか痒いのか、わからない。
グラスが床に散乱した部屋の中で、蒼介はしばらくしゃくりあげていた。ひ、ひ、と過呼吸のような息遣いで、ときどき鼻をすすった。ずる、という音に、ひとの体液の生々しさがうかがえる。背中をさすっていた手を止め、うずくまる蒼介を避けるようにして立ち上がった。
「どこ行くの!」
語句の強さにぎょっとして、蒼介を見下ろした。
「いや、どこにも。片づけるだけ」
ずる、ずる、また生々しい体液の音がする。あまりにも室内が静寂過ぎて、鮮明に聞こえて仕方がなかった。足を引きずるたび、足の裏がぴくりとはしる。いて、反射的に声を出すと、ごめん、と背後から繊細な線のように聞こえた。いいよ、とは言わなかった。
キッチンの下に散らばるグラスをひとつひとつ拾った。あまり飛び散ってはいないようで、覗き込んでも細かい破片は見えない。ただ夜だからかもしれない。白熱灯の灯りだけでは、わかりづらかった。蒼介に、掃除機の有無を尋ねた。彼はゆるりと起き上がり、ふらふらと歩き出す姿はまるで、しおれかけた見知らぬ植物のようだった。蒼介が歩くと、ときおり転々と臙脂色の跡がつく。特に違和感なく眺めているあたり、律はあれを、血だと認めているようだ。あとで拭かなきゃな、などと冷静に考えてしまう。なにやらおかしなことになった、とはそのときは考えていなくて、この凄惨な部屋を片づけないと、とそれだけだった。
「蒼介」
彼は、掃除機を持って、律の側に立った。
「おまえもういいよ、そこにいて。動かないでいい」
おまえが動くと血の跡がつく、そう続けるとまた、彼はしゃがみこんで嗚咽を漏らした。ごめん、ごめん、律ごめん、途切れ途切れ喋る彼に律は、うん、うん、と返すしかしなかった。
周辺に掃除機をかけ、次は救急箱はあるかと聞いた。すぐそばの収納棚にあるようで、場所を教えられたら律にもすぐわかった。中身を確認すると、粗方入っている。几帳面な蒼介らしい。消毒、絆創膏、ガーゼ、テープ、風邪薬、それらがひとまとめにして籐の籠に入れてあった。仕事柄、律の生傷は絶えなく、多少の怪我の治療には慣れていた。ぶつけることも、擦りむくことも昔は多かった。もっとも最近はもう、少なくなったけれど。
蒼介の靴下を脱がせ、足の裏を見た。じっくり眺めてみたけれど、ガラスの破片は肌には入り込んではいないようだ。消毒をして、乾かしてからガーゼで軽く覆ってテープで止めた。おそらく、律よりも彼のほうが重症だろう。なにしろ、割れたグラスを踏んで引きずって歩いていたのだから。あの光景も、蒼介の言葉も絶叫も金切り声も、思い出すとぞっとする。それなのに今、まだ律はここにいて、自分の手当ても終わらせている。最後にはもう、おかしくなってしまった。
「なに笑ってんの? おれに呆れた? もうどうせ、嫌になったんだろ」
「いや、そうでもない」
噓だ、嫌に決まっている。鍵を返しただけで、たかだか女と寝ていただけで、この瞬間のこの出来事はなんだ。あきらかに異常な光景に違いないのにどうしてだろう、嫌だなんて、瞬発的に浮かばなかった。
「なあ蒼介、昔はさあ、おまえのほうが俺の面倒見てた感じだったじゃん」
勉強に、普段のことだってそう、エアコンが壊れたときは避難もしていた。
「それがいまは、俺がこんなふうに世話してるなんて笑えるよな」
蒼介は、大きく首を振った。
「そんなこと、思ったことない」
キッチンの下に座り込んだまま、さっきより距離が離れているのに、蒼介がよほど近く見える。シーリングライトに照らされて、目がちかちかした。彼がまばたきをするたび、逸らしてしまいたくなるほどその目は濡れている。光が当たると一層、きらめいて見えた。
「律はいつも、おれより先を歩いてたし、いつだって堂々として、いつも笑ってた」
先に行っちゃいそうだった。焦点の合わない目で、放るような言葉で、回答が見つからなくて笑うしかない。
「そっかー? なんも考えてなかっただけじゃねえ?」
また彼は、首を振る。
「律、律……」
「ん?」
急に目を伏せてしまった蒼介を、下から覗き込む。
「ごめん、おれのこと、きらいにならないで」
散々だった。夕方、何度も間を開けずにラインが届いた。内容は恐ろしい、どこにいるの? ときた。鍵を返しに行けば今度は、グラスを割られて踏んで怪我をし、まったく理屈の通らない詰られかたで責められ、絶叫され、部屋を片づけた挙句怪我人の世話をした。
消えろくそが、俺の前から消え失せろくそったれ。
「ならねえよ」
「え?」
「嫌いにならない」
これが優しさかと問われたら、違うと思う。同情か? と聞かれても一致しない。じゃあなんだ。ミツルも宇崎社長も、交互に頭の中で律に問うた。
優しさはときに残酷で、人を理解しようなんて浅ましいこと。だとしたらこれはなんだろう。律にはまだ、わからなかった。ただ、どこの場所にも属さないことだけはわかった。
蒼介はまた、うずくまって嗚咽を漏らした。何かが生きているという、得体の知れない生命の音だった。
仕事の休憩も、もうすぐ終わりだ。またスマホが鳴った。もうめんどくせえ、開くとやはり、蒼介だった。
律、今日は仕事なんだよな? 終わったら、家に寄ってよ。
蒼介の部屋の鍵は結局、もう一度ポケットに入れてしまった。誰が行くかばーっか死ね! と返信はできなかった。
なんか食わして。
もうこれ喜劇だろ、思い切り舌打ちをして、スマホをポケットに戻した。
最初のコメントを投稿しよう!